戦後に起きた米軍のG2あるいはCICと、それら組織に所属する下請けグループによる謀略と思われる出来事で、下落合に関連した事件として松川事件に絡む亀井事件Click!と、さらに帝銀事件Click!について記事に書いた。そればかりでなく、下落合には下山事件にも深くかかわっていた人々も住んでいる。
 「死後轢断」の司法鑑定をし、東京地検と警視庁捜査第二課の他殺捜査を支えた、下落合1丁目473番地の東大法医学教室教授・古畑種基Click!(執刀医は同大学教授・桑島直樹)もそうだが、広津和郎Click!や木下順二、開高健、桑原武夫、松本清張Click!、そして都立大学や東京大学、京都大学、立命館大学の法学関連教授らも参加して、自他殺の判定をGHQの圧力で放棄した警視庁に代わって追及しつづけた、「下山事件研究会」の代表幹事をつとめた下落合2丁目702番地の元東大総長・南原繁Click!もいる。
 現在、米国の公文書や元・機関員たちの証言・告白などによって判明している、GHQの参謀部の下に展開していた下部組織について、ちょっと“おさらい”的に整理しておこう。GHQ参謀長の下には、米軍第8軍の諜報機関であるG2があり、その下には日本の警察組織を統治・管理するCICが存在している。ある国が、他国や他民族を統治・支配するためには、被統治国の人々を手足のように使ったほうが抵抗が少なく、効率的なのは自明のことだ。このあたり、日本の敗戦から25年後のニクソン・ドクトリンによるベトナミゼーション、すなわち「ベトナムのベトナム化」政策へと還流しているのだろう。
 明治の薩長政府が、そっぽを向いてまったくいうことをきかない、反感が渦巻く江戸東京市民を統治するために、地元で知名度の高い人気のある旧・幕臣や町人の有力者(町名主・町年寄などの町役人)たち、あるいは江戸東京総鎮守・神田明神の主柱に関連深い人物Click!などを、次々と登用Click!せざるをえないハメになったのと同様、米軍も米国人が直接日本人に接して統治するよりも、日本人あるいは容姿が似ている日系2世に“仕事”をさせたほうが、よほど効率的だと当初から考えていたフシが見える。これらの直接的な仕事をしたCICや日本の警察組織のほか、G2には警察に対して命令しにくい“陰”の仕事をさせる、日本人による諜報・謀略グループが数多くつくられている。
 そこに集められた日本人は、元・陸軍憲兵隊Click!の士官や特高Click!の刑事、思想検事、陸軍中野学校Click!出身者、大陸の特務機関員、右翼の構成員など、戦犯として巣鴨プリズンに収容されている人物たちも多かった。判明しているだけでも、柿ノ木坂機関、有末機関、服部機関、馬場機関、日高機関、矢板機関、辰巳機関、伊藤機関……など、のちに証言で次々と明らかになっているものだけでも相当数にのぼる。その様子を、2005年(平成17)に祥伝社から出版された、柴田哲孝『下山事件 最後の証言』から引用してみよう。
  ▼
 長光捷治は、キャノン機関の筆頭直属組織だった「柿ノ木坂機関」の総帥である(長光自身は「ウィロビーの直属機関だった」と証言している)。湯島の岩崎別邸(ママ)にキャノン機関が開設された昭和二三年から二四年春にかけて、キャノン中佐は巣鴨プリズンに連日のように通いつめていた。旧満州や北朝鮮などの極東の情報に精通する“協力者”を、巣鴨に残る戦犯者の中からリクルートすることが目的だった。キャノンは「G2の協力者になれば戦犯を解除し、日本人の一般知識人労働者の一〇倍の収入を保障する」ことを条件に、旧日本軍の特務機関員などを中心に交渉を続けた。その中の一人が、元上海憲兵隊中佐の長光だった。長光は中国に対する広い知識と語学力が評価され、G2直属の特務機関長に抜擢されることになる。長光が機関長を務める柿ノ木坂機関は、衣笠丸事件(キャノン機関が関連した密輸事件)の際にも「主犯の塩谷英三郎を拉致監禁した」実行犯として名前が挙がっている。
  ▲



 G2あるいはZ機関(通称キャノン機関)の命令で、書かれている衣笠丸事件をはじめ、松川事件に関連した亀井事件に関わったとされる柿ノ木坂機関を組織した長光捷治は、下落合4丁目2144番地(現・中井2丁目)に住んでいた。この住所は、ちょうど六ノ坂下の西側、戦前戦後を通じてたった1軒の住宅の地番にしかふられておらず、林芙美子・手塚緑敏Click!が住んだ“お化け屋敷”Click!(下落合4丁目2133番地)のすぐ西側に位置する家だ。
 しかも、下落合4丁目2135番地にあったキャノン機関による鹿地事件の鹿地亘Click!の自宅とは、なんと六ノ坂をはさんで50m弱しか離れていない。以前、吉屋信子Click!が愛用のカメラで撮影した「牛」Click!をご紹介したが、そこに写る道路の左手の一角が下落合(4丁目)2144番地だ。
 のちに、下落合から福岡へと転居する元・憲兵中佐の長光捷治について、1989年(昭和64)に築地書館から出版された斎藤茂男『夢追い人よ』から引用してみよう。ちなみに、池之端の岩崎本邸=本郷ハウス(本郷ブランチ)を接収したキャノン中佐(のち大佐)は、米国へ帰国後CIAの仕事をしていたが、自宅のガレージで何者かに射殺されている。
  ▼
 ところでこの長光氏が亀井さん誘拐事件のあった二十九年二月当時には、新宿区下落合四ノ二一四四に家を持っていたことを知り注目した。しかし「亀井供述」や長光氏の話などから、事件に結びつくものは見当たらなかった。同氏は亀井さんの写真を見てもちろん「知らない」と答えた。
  ▲
 下落合4丁目2144番地は、中ノ道をはさんで目の前が西武新宿線の線路に面しており、亀井よし子が拉致・誘拐され監禁されたのはこの家ではない。なぜなら、彼女は通行人に駅の所在を訊ねているが、もし長光宅が監禁現場であったとすれば、目の前を走る西武線の線路をたどることで最寄り駅へたどり着けることは、すぐにわかったはずだ。また、長光宅の周辺で最寄りの駅を訊ねれば、そこから1kmも離れた下落合駅ではなく、当然、400mほどしか離れていない中井駅を教えられていただろう。やはり、アジトは下落合駅周辺と考えたほうが自然なのだ。
 ただし、大阪で孤児として養育施設で育てられた亀井よし子が、松本善明邸の純粋な“お手伝い”としてではなく、戦時中に吉田茂邸へ送りこまれていた憲兵隊あるいは陸軍兵務局分室Click!=工作室(ヤマ)による女中たちのように、CICないしはいずれかの機関による諜報員だったとすれば、まったく異なる筋書きが見えてくることになる。
 その場合、松川事件の真犯人のひとりとみられる人物が、名古屋から弁護士・松本善明あてに告白の手紙を寄せたことは、亀井よし子から某機関へすぐにレポされたかもしれず、手紙数通が松本家から盗まれたのは彼女による窃盗犯の引きこみ、ないしは内部の犯行ということになってしまう。また、松本家での諜報活動に嫌気がさした彼女が、機関の指示に従わなくなり、改めて恫喝・洗脳のために拉致された……というような、まったく別のストーリーが見えてくるのだが。

 
 また、G2傘下の機関員あるいは企業(工場)には、「油」を使用して石鹸や染料(絵具・クレヨン)などの仕事をする人物が、数多く登場してくる。ここで必然的に想い浮かぶのが、国鉄総裁・下山定則の遺体のシャツや下着などへ、絞れば滴るほど大量に付着した(上着表面にはほとんど付着していなかった)米糠油や、染料の出所についてだろう。
 引きつづき、共同通信記者だった斎藤茂男の『夢追い人よ』から引用してみよう。
  ▼
 亀井さんが死んだのは、彼女の満二十一歳の誕生日――偶然の一致だろうか?/われわれはふたたび誘拐現場に戻った。「亀井供述」から引き出される唯一の手掛かりは「下落合駅」である。しかし、他の手掛かりはないだろうか。松本氏の友人をねらったと思われる一連の事件(私信盗難、尾行、誘拐)、とくに誘拐事件の手口は鹿地事件、佐々木大佐事件、衣笠丸事件など多数の例とよく似ているように思われる。これらの事件にはいずれもアメリカ情報機関またはその下部組織が関係していたと伝えられる。/そこで、これらの事件にかかわりのあった人物を捜してみた。衣笠丸事件の被告だった塩谷英三郎氏(東京都豊島区要町)は「柿ノ木坂グループ」に誘拐監禁されたと述べた。二十四年ごろから、東京目黒区柿ノ木坂の邸宅に本拠を置き、アメリカ情報機関に協力する仕事をしていた元憲兵中佐・長光捷治氏(五十七歳)は、いま福岡市内で舟山卓衛氏とともに米軍基地からの払い下げ油を売買する仕事をしている。(註釈番号略)
  ▲
 亀井よし子の急死後、臨終を看とり死亡診断書を書いた弘済病院の植村医師は、ほどなく病院の窓から墜落死し、養育施設では彼女の母親代わりだった香川緑は、なにかを怖れて間もなく失踪し行方不明となっている。まるで、できの悪い2時間サスペンスドラマのような、こんなコテコテの事件や成り行きでも、たいして注目を集めなかったのは、いまだ敗戦直後の大混乱がそのままつづいており、人々は世の中の出来事へ細かくていねいに目を配る余裕がなく、日々の生活や食べるのにせいいっぱいの世相だったからだ。
 

 1947~1952年(昭和22~27)のわずか5年間で、列車妨害事件は19,253件も発生しているが、そのうち単独犯ではなくチームとして人数をそろえ、専用の工具を使い軌道敷設の専門知識がなければ不可能な、犬釘抜きや継ぎ目板外し、レール取り外しなどによる列車脱線・転覆事故は94件。悪質な未遂事件も含め、今日でもほとんどが犯人不明のままとなっている。米国公文書館の情報公開で明らかになった、「鉄道破壊には日本駐在のCIA特別技術チーム(CIA special technical team in Japan)を必要とした」という記述は、GHQの諜報機関がCIAへと改編されたのち、元G2傘下のいずれかの機関、あるいは特別に編成されたCIC要員のエキスパートチームを指している可能性がきわめて高い。

◆写真上:柿ノ木坂機関の元・上海憲兵隊中佐・長光捷治が住んでいた、下落合4丁目2144番地の現状。道路左手の、茶色いタイル張りの住宅あたりが長光宅跡。
◆写真中上:上は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる下落合2144番地。鹿地亘の自宅(戦後)とは、50mと離れていない。中は、1947年(昭和22)の空中写真にみる長光捷治宅。下は、1965年(昭和40)作成の「住居表示新旧対照案内図」。2144番地は、戦前戦後を通じて1軒の住宅にしかふられていない。
◆写真中下:上は、1949年(昭和24年)8月17日未明に福島県松川町で起きた松川事件で機関車乗務員の3名が死亡した。下左は、同事件弁護士のひとり松本善明あてに配達された真犯人からの手紙。CIC日系2世軍人2名に実行犯7名の計9名記述は、現場の目撃証言と一致している。下右は、1989年(昭和64)出版の斎藤茂男『夢追い人よ』(築地書館)。
◆写真下:上左は、G2を指揮した准将C.ウィロビー(退役時少将)。上右は、Z機関(キャノン機関)のボスだった中佐J.キャノン(退役時大佐)。下は、米軍が接収しZ機関が設置された池之端の岩崎本邸。別名、本郷ハウスまたは本郷ブランチとも呼ばれた。