秋山清が第一文化村で暮らしていた、借家の所在地が悩ましい。以前、特定した下落合4丁目1379番地の北原安衛邸Click!は、たとえその一部を借りていたとしても、とても当時の秋山の収入では借りられる建物でも立地でもない。また、下落合4丁目1379番地は、ちょうど秋山が住んだころ微妙に地番変更が行われ、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみえる同地番の3軒の住宅だけではなかったようだ。
 当時の地図類から推定すると、1929年(昭和4)以前の下落合(4丁目)1379番地は、それ以降の同地番より住宅の敷地1~2軒ぶん、北側へ縮小されているらしい。つまり、秋山清が1929年(昭和4)9月に下落合へ転居してきたときは、地番変更の真っ最中だった時期と重なるようだ。秋山清が引っ越してきた当初、当該の借家は下落合(4丁目)1379番地だったものが、翌年から下落合(4丁目)1373番地に変わっている可能性が高い。
 すなわち、秋山は転居した当初の地番を記憶していて著作に記しているが、実は下落合で暮らしていた大半の時間、秋山宅は下落合(4丁目)1373番地だったことになる。それでも不自由を感じなかったのは、下落合(4丁目)1379番地と宛名に書いて秋山宅へ郵便物を出しても、配達員は旧地番をいまだ記憶しており、秋山宅が1379番地から南隣りの家であることを、配達員が熟知していたからだと思われる。また、秋山があえて下落合4丁目と認識しているのは、淀橋区が成立する1932年(昭和7)以前から、下落合では丁目表記Click!が導入され、ふつうに使われていた“証拠”でもあるだろう。
 地番のズレに気がついたのは、1986年(昭和61)に筑摩書房から出版された秋山清『昼夜なく-アナキスト詩人の青春-』所収の「山羊をやめる」の一節から、次のような記述を見つけたからだ。以下、同書より引用してみよう。
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 折から九月半ばの、朝は郊外の道や草が露っぽく、涼しい季節、西武電車(新宿線)の中井駅付近は郊外も郊外、人家は少なく、畑と森の多い、閑静な地域で、五十年後の今は道さえも変貌してしまって、似ても似つかない。小川にタナゴが釣れ、秋の木の葉が黄に彩られていた。(中略) 西部電車の中井駅から行く、いわゆる目白の文化村の名はその頃すこしは知られていた。中井駅の東一帯の丘陵を開発して地所を売る、土地会社という名もめずらしかった。/朝日新聞をやめたすこし以前、黒色戦線社にはじめて行った日、図らずもその丘の上を歩いて、閑散たる様子が気に入り、丘を登りつめた木立の下に在った雑貨屋に立ちよって、小さい貸家はないかとたずねると、そのおやじは声をひそめるようにして「いいのがある」といってすぐ私を案内した。行ってみて気に入り、契約した。四畳半と八畳の部屋、小さい台所、東の方に広い出口、そこから目の前のテニスコートに出て行ける、つまり私が借りたのは、文化村開発のために特に設けられた、軟式テニスコート付属のクラブハウスというべきものだった。月額八円の家賃も高くない。翌日すぐ引っ越した。
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 秋山は、「中井駅の東一帯」と書いているが、目白文化村は同駅から見るとほぼ真北に位置している。また、彼が丘上へ上っていったのは一ノ坂Click!とみられ、坂を上りきった右手の一画には第二文化村に面した雑貨屋Click!が開店していた。ちなみに、現在も店舗が残る川口軌外アトリエClick!のすぐ北側、下落合4丁目1995番地(現・中井2丁目)の雑貨屋さんは、取材させていただいた栗原様のおばあちゃんによれば1934年(昭和9)に青果店として出発し、戦後から食品雑貨までを扱うようになったので、秋山が訪ねたのはこの店ではない。おそらく、第二文化村の三間道路沿いに並んでいた商店の1軒だろう。
 さて、当サイトの目白文化村Click!をテーマにした記事をじっくりお読みの方なら、このテニスコートClick!とクラブハウスが、もともとは箱根土地Click!の堤康次郎Click!の趣味から相撲場や柔道場が建設された跡地の再利用であることに、すでにお気づきだろう。
 しかも、箱根土地はこの土地を取得できず宅地として販売できないまま、地主へ借地料を払って福利・遊戯施設を次々と建てていたエリアだ。すなわち、箱根土地の強引な事業の進め方に反発した下落合の地主と、第一文化村内に残った未買収地を手離させようと、嫌がらせClick!を繰り返す箱根土地との間で、最後まで土地の売買契約が成立せず、両者が確執や対立を深めていったエリアでもある。そして、堤康次郎の傍若無人な開発ビジネスに反発していた地主とは、もちろん佐伯祐三Click!の『下落合風景』シリーズClick!をめぐり、当サイトへ何度も登場していただいている宇田川様Click!だ。
 家賃が8円/月の第一文化村の家は、かなり狭いながら“事故物件”でもない限り、当時としては破格の安さだったろう。おそらく、同じクラブハウスに住んでいた萩原恭次郎Click!や小野十三郎も、この安い家賃が非常に気に入って文化村に住んだにちがいない。そして、このテニスコートの二間道路をはさみ西隣りの敷地に住んでいた、漫画「のらくろ」の田河水泡Click!が見た「羊」とは、まちがいなく秋山清が飼っていたヤギであり、田河が書いている「羊」は「山羊」の誤記ないしは誤植だと思われる。
 秋山清が家賃を払っていたのは、テニスコートを設置した箱根土地ではなく、地主の宇田川家が管理を委託していた差配に対してだったのだが、ここで摩訶不思議なことが起きる。家賃が月を重ねるうちに5円、3円と値引きされ、しまいにはタダになってしまったことだ。引きつづき、同書から引用してみよう。


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 目白の文化村に借りた家の家賃は、はじめ月八円、やがて五円に値引きされ、さらに三円、も少しすると無料でいいといって来た。そこにはこんなわけがあった。文化村を開いたのは箱根土地会社、それと土地の所有者とに争いが起こり、私に貸した方の地主の側に、その差配はついていた。そこで自分らの手で家を貸借していることを証拠立てるために、私がいつまでも引っ越して行かぬことを希望して、家賃を値引きしたのである。/土地会社の方は、この地域の悶着が片づくまで家賃は不要、あの差配に支払う必要はない、大威張りでここに住んでいろ、ととんだ内幕をさらけ出し、とうとう双方のすすめるままに、三年くらいの間ただ住まいということになった。近所の空地に野菜をつくったり、人を集めてテニスをしたりしているうちに、土地の争いはようやく終わったらしく、それは昭和八年のことだったが、地主と土地会社の二人の男が来て、立ち退いて貰いたい、ついては意見もあろうから考えておいて欲しいといい出した。/抗争の間、いつまでも居てくれといったのを、そちらの都合で立ち退いてくれとは虫が好すぎる、と回答すると、もっともと帰っていった。
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 地主と箱根土地との“板ばさみ”になったおかげで、秋山は目白文化村で3年間、家賃を払わずに母親と暮らせた。しかも、空き地で野菜を育て、ヤギを譲り受けて飼いながら、ヒマなときには仲間とテニスを楽しむという、信じられないような優雅な生活がつづいた。まさか目白文化村のテニスコートで、特高Click!から目をつけられていたアナーキストたちがテニスに興じていたなど、にわかには信じられない出来事だろう。
 さて、このクラブハウスのあった位置が、地番変更前は下落合(4丁目)1379番地であり、おそらく1930年(昭和5)からの変更後は下落合(4丁目)1373番地となる敷地だ。1938年(昭和13)作成の「火保図」でいうと、以前に誤って特定した下落合1379番地の北原邸から、前田邸をはさんで1軒南隣りの家、すなわち「火保図」では下田邸と記載されている敷地にクラブハウスは建っていた。
 1936年(昭和11)の空中写真では、テニスコートは残っているものの、クラブハウスの跡には、すでに下田邸と小南邸が建設されている。その直後、箱根土地はテニスコートも宅地として販売したらしく、広い敷地にはその南東側にあったはずの白石邸が移り、改めて大邸宅を新築(移築?)したらしい様子が、2年後の「火保図」から見てとれる。


 地主と箱根土地との対立に巻きこまれた秋山清は、立ち退きの際にクラブハウスの建物を譲り受け、家賃8円×8ヶ月分=64円の立ち退き料をもらっている。おそらく支払ったのは、宇田川家との交渉でようやく土地買収に成功した箱根土地側だったろう。秋山は、これらの資金をもとに西落合でヤギを多く飼いはじめ、やがて万昌院功運寺Click!の北側、上高田300番地に500坪の土地を借りて、本格的なヤギ牧場Click!の経営をはじめている。

◆写真上:第一文化村のテニスコート北側、クラブハウスがあったあたりの現状。
◆写真中上:上は、1925年(大正14)に箱根土地が作成した「目白文化村分譲地地割図」にみるテニスコートと観覧席。クラブハウスは、のちにコートの北側に造られていると思われる。下は、1936年(昭和11)の空中写真に見る同エリア。テニスコートは残っているが、クラブハウスが建っていた位置にはすでに下田邸と小南邸が建設されている。
◆写真中下:上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」でテニスコートは消滅し白石邸が建設されている。下は、1945年(昭和20)4月2日にB29偵察機から撮影された同エリア。山手空襲Click!直前の、最後の目白文化村をとらえた貴重な写真だ。
◆写真下:上は、一ノ坂上の角にある第二文化村に面した1934年(昭和9)開店の当初は青果店だった店舗。下は、第一文化村にあった“中央テニスコート”跡の現状。