これまで「下落合風景」を描いた画家として、あるいは下落合西部(現・中井2丁目)あたりに少なくとも明治中期まで実家(田畑や墓地含む)があった画家として、小島善太郎Click!とその作品を何度となく取りあげてきた。だが、小島が描く風景は明治末ということもあり、下落合の丘や坂を描いたものか、書生だった大久保の中村覚邸Click!の周辺を描いたものなのか、あるいは画角が狭く部分的であり、周辺の地勢や目標物がつかめなかったりと、描画ポイントをハッキリ特定できた画面は意外に少ない。
 先日、百草776番地の小島善太郎アトリエClick!(百草画荘)をお訪ねしたとき、板へ明治末に描かれたとみられる最初期の『自画像』をお見せいただいた。その裏面(表面?)には、風景画が描かれていたのだが、17~18歳前後とみられる表面の『自画像』と裏面の風景画と、どちらが先に描かれたのかは判然としない。でも、時期としては中村覚邸の書生に入り、初めて油絵の画道具一式を買ってもらったころ制作された作品であり、しかも太平洋画会研究所へ通うかたわら、落合地域や戸山ヶ原Click!などをスケッチしてまわっていたころの画面だ。
 ようやく油絵の具が使えるようになった初期の様子を、1968年(昭和43)に雪華社から出版された小島善太郎『若き日の自画像』から引用してみよう。
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 大久保から落合に通ずる戸山ヶ原の西端。道に面して牧場が楢林に囲まれ、畠から林越しに牛と牧舎が見える。その道を落合の方に向かうとだらだら坂で、東側は丘、丘につづいて杉林があり道が暗かった。丘には樫の木が鬱蒼として根張りを丘なりに張り合って見せ、西に沿って降りた地平には大欅が立ち並んで、間に檜、楢、杉等が麓まで続いている。欅も楢も霜に耐え兼ね、葉が吹く風に舞って灰色の裸木が親しい落着きを見せていた。/自分はそこに立って構図を練ると、やがて油絵で描き出したのである。新しいカンバス、新しいパレット。誰でも味わうであろう初手の感動で新しい管から締り(ママ)出す絵具の心地好さ、テレピン油の香に酔い乍ら静かに筆を進め出した。新しい筆に湿む色地の水々(ママ)しさ、一触毎に味わう心地には最早や、我も無く浸り出し、自然の持つ色調をパレットの上に調合せては白地のカンバスの上を、大きなタッチで段々に塗り重ね描き埋めて行った。
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 文章の様子から、小島善太郎は中村邸のある大久保方面から小滝橋通りClick!を歩いて、左手(西側)にゲルンジー農園(ゲルンジーミルクプラントClick!)を、右手(東側)には戸山ヶ原Click!西端の小高い丘を眺めながら、旧・神田上水に架かる小滝橋Click!へと歩いているのがわかる。おそらく、小島は小滝橋周辺の風景を描いているとみられるが、このときは板ではなく布のキャンバスを用いている。
 

 板に描かれた『自画像』の裏面を拝見したとき、左手につづく丘の急斜面と崖線下につづく街道のような道筋、そのカーブの様子や周辺の風情から、すぐに下落合のとあるポイントが脳裏に浮かんだ。描かれてから100年以上も経過した画面なので、かなり褪色やくすみが激しいけれど、この独特なカーブの道筋や、正面の半島状に大きく張りだした丘陵の様子など、旧・下落合広しといえどもこれに見合う描画ポイントは、たった1ヶ所しか存在していない。
 画面の光線は、ほぼ真上のやや右手から射しているように見えるけれど、デッサンの陰影がいまひとつハッキリしない。このあたり、小島善太郎が絵を勉強しはじめたばかりで、若描きのせいなのかもしれない。中央には、まず「S」字型にカーブした道が描かれているが、左手から出っ張った斜面は前方につづく道を隠してしまうほどの大きなものではなく、正面の丘の下まで道がつづいている様子が描かれている。
 正面の丘は、左手から右へ大きく張りだした丘陵で、まるで海に突き出た半島のように見える。その丘つづきである手前左手の丘麓を見ると、道をやや掘削したように描かれているが、左手のバッケClick!状になった急斜面から、雨で土砂が道へ崩落するのを防ぐ土砂止めがほどこされているようにも見える。
 おそらく、描かれているのは下落合の目白崖線であり、その丘陵の地形やカーブする道路の様子などを考慮すると、描画ポイントは中ノ道Click!(新井薬師道)の路上で、のちに武藤邸が左手の斜面に建設される、下落合2073番地(画面左手の地番)のまん前(南側)あたりだろう。ちょうど土砂の山か、土砂止めの板でも積みあげられていたのか、少し高い視点から眺めているのがわかる。
 現在の様子に置き換えれば、描画ポイントは四ノ坂Click!と五ノ坂Click!の間、より五ノ坂寄りの路上から、小島善太郎は東北東を向いてスケッチブックを広げており、中央やや上の出っ張った斜面や、その前面にある「S」字カーブの向こう側には、林芙美子記念館Click!が見えることになる。画面のすぐ右手には、のちに尾崎一雄Click!が暮らすことになる「もぐら横丁」Click!の路地が通うことになるが、当時はいまだ小川状で大きく蛇行を繰り返す妙正寺川沿いに、麦畑Click!を中心とする田畑が拡がっているのだろう。
 そして、小島善太郎が立っている右手の枠外50m足らずのところには、明治の後半になって川筋の変更とともに南側へ新たな水車小屋が造られ、廃止になって間もない妙正寺川の旧流沿いに残っていた、旧・バッケ水車小屋が見えていたはずだ。この旧・水車小屋は、付近の農民が農作業の帰りに立ち寄る風呂屋Click!に改造され、この時期、小島善太郎の両親が借りて移り住んでいた。



 太平洋画研究所の帰り道か、あるいは休日に大久保の中村邸から実家まで出かけてきたものかは不明だが、小島善太郎は足にケガをした父親の見舞い、または妹の死から落胆して病気がちになった母親の見舞いに訪れた際、実家から北側の中ノ道へ抜けるとやや西へ歩き、明治末の「下落合風景」をスケッチしたものだろう。
 現在、描かれた道路は大きく拡幅され(拡幅工事は大正期にも一度行われているとみられる)、クルマが往来する2車線道路となっている。画面の左側から正面、さらに右側へと連なる丘陵斜面は、大正中期からのアビラ村(芸術村)Click!の宅地開発でひな壇状に造成され、明治期の面影はほとんど残っていない。宅地化の進行とともに、現在では斜面に繁っていた樹木もほとんどが伐採されており、画面のようなこんもりとした樹林の風情も、大木が繁り実際の標高よりも高く見えた目白崖線の森も消えてしまった。ただし、中ノ道(新井薬師道)のカーブのみが、当時の面影をとどめている。
 1936年(昭和11)に撮影された空中写真を見ると、小島善太郎が描いた「下落合風景」の風情が、まだ少しは残っていたことがわかる。空中写真の妙正寺川は、整流化工事が進められている最中だが、いまだ旧流の跡が見てとれる。また、1927年(昭和2)に開通する西武電鉄Click!はもちろん存在しないし、山梨の水力発電所からつづく東京電燈谷村線Click!の高圧線塔さえ、この画面が描かれたころには存在していない。空中写真を観察すると、小島善太郎は実家から周辺を散策していたとき、「S」字カーブの道筋と連なる崖線の重なりに画因をおぼえ、スケッチブックを開いたのだろう。
 多くの画家たちが、「下落合風景」を描きはじめるのは大正の中期以降なので、明治期の「下落合風景」はきわめてめずらしい。参謀本部陸軍部測量局が、1880年(明治13)に作成した1/20,000地形図欄外に描かれた、火災直後の稲葉の水車Click!が明治初期の絵として思い当たるが、小島善太郎の明治期に制作された風景作品は、それに匹敵する貴重な記録だ。江戸期とさほど変わらなかったと思われる下落合の風景だが、当時の様子を知る手がかりは古地図Click!のみで、わたしとしてもその風景はいまだに未知の世界なのだ。
 

 さて、小島善太郎が『下落合風景』(仮)を描いてからおよそ16年後、小島の描画ポイントから東へ250mほど歩いた同じ路上の、少し高めの位置へイーゼルを立てた画家がいた。画家は、左手(北側)の丘陵をほとんど画角には入れず、道路工事の真っ最中だった曲がりくねった道筋と、その向こうに白煙を上げる草津温泉Click!の煙突や青物市場などの建物を入れ、開発されつつある東京郊外の雑然とした情景を好んでモチーフに選んでいる。その画家とは、もちろん1930年協会Click!で小島善太郎といっしょになる、『下落合風景』シリーズClick!を描きつづけていた佐伯祐三Click!だ。
 小島善太郎が明治末から大正初期に描いた作品には、下落合とその周辺や大久保、戸山ヶ原、四谷など故郷の現・新宿区を描いた作品が少なくない。それらを集めて、新宿歴史博物館で「小島善太郎-明治から大正の新宿風景-」展という企画はいかがだろうか? 特に、明治末から大正初期の新宿北部が描かれた作品は、新宿歴博に収蔵されている『目白駅より高田馬場望む』(1913年)も含め、小島善太郎の画面しか見あたらないからだ。

◆写真上:明治末の制作とみられる、板に描かれた小島善太郎『下落合風景』(仮)。
◆写真中上:上左は、画面を構成している情景。上右は、百草の小島善太郎アトリエ(百草画荘)の内部で、手前に置かれたチェストの中央には陸軍大将・中村覚の肖像写真が見える。下は、1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる描画ポイント。
◆写真中下:上は、妙正寺川の古い川筋の跡で旧・バッケ水車小屋(小島宅)が建っていたあたりの現状。中は、1936年(昭和11)の空中写真にみる描画ポイント。下は、中ノ道(新井薬師道)の路上から眺めた『下落合風景』(仮)の現状。
◆写真下:上左は、美仲橋から妙正寺川の川下を撮影。流れの右手のあたりに、明治後期の新たなバッケ水車小屋が造られた。上右は、小島善太郎が書生として仕えた陸軍大将・中村覚。下は、1926年(大正15)ごろに制作された佐伯祐三『下落合風景』。