矢田津世子Click!が遺したノートから、特高に逮捕された記録を詳細につづった『獄中の記』が、1989年(平成元)に発見された。釈放されてから間もなく書かれたとみられ、すべての刑事や看守が実名で書かれており、彼女の記憶力のよさとともに戸塚警察署2階にあった特高室の様子が生々しく刻銘に記録されている。
 敗戦と同時に、警視庁特高課Click!(のち特高部)や憲兵隊に勤務していた警察官や陸軍特務Click!の士官は、ドイツのゲシュタポ同様に思想弾圧にともなう殺人・傷害などの告発や、戦犯容疑で拘引されないようGHQと接触して取り引きし、米軍の手先となって防諜・諜報活動などをしていたことは、今日かなり明らかになってきている。米軍も積極的に彼らへ「収監」をチラつかせて脅しては利用し、日本国内ばかりでなくアジア地域で、ことさら「危ない仕事」をさせていた。戸塚署に設置された特高室の幹部たちが、戦後どのような運命をたどったかは不明だ。
 1933年(昭和8)7月21日(金)の午前10時30分、矢田津世子は下落合1986番地の自宅Click!2階で訪問客の大谷藤子と話しているところを、戸塚町2丁目67番地にある戸塚署の特高係刑事3名(板倉、高橋、高橋)に検挙された。このとき、3名の刑事は彼女のアルバム、手紙類、手帳などを風呂敷に包んで押収している。署に着くと、昼食のあと早々に留置場へ放りこまれているが、彼女は房の中には入れられず、留置場の幅90cm余しかない石廊下の突き当たりに敷かれた筵(むしろ)の上へ、他のふたりの女とひがな1日正座させられ、夜もこの筵の上で寝ることになる。
 戸塚署の特高室に着いてから、留置場へ放りこまれるまでの様子を、矢田津世子ノートの『獄中の記』から引用してみよう。
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 戸塚署二階特高室。――異状な感じである。十二時近し、板倉といふ刑事が私の係りになるらしく、何かと調べる。昼食をといひ、牛乳とパンと玉子を頼む。泰然とはしてゐたが何とは無しに顔色の白む気がする。十二時半すぎ、階下へ。留置場は署の内勤室裏手にある。六十近い看守、(山崎さん)が何かと、やさしく私に話しかけてくれる。(中略) 房の格子から沢山の顔がのぞく。顔は青白く、動物的に光る眼が私を注視してゐる。幅三尺程の石の廊下がある。その突き辺り(ママ)、窓の下に筵が敷かれ、二人の女のひとが細紐ひとつの姿で座つてゐる。私は、帽子、ハンドバツク、靴などを看守にとり上げられ、女のひとのゐる筵に座らせられる。私の座つてゐるすぐ左側は保護室、右は第二保護室、第二の次が第一留置、第二留置、第三留置となつてゐる。
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 この一文でもちらりと触れられているが、看守には親切な老人や東北(山県)出身の男もいて、いろいろ彼女の面倒を細かくみてくれたようだ。そういう人物に対しては、文章ではあえて「さん」付けで書かれている。

 矢田津世子は、戸塚警察署の留置所平面図を残している。赤い×印のところが、彼女が寝起きしていた筵の敷かれた場所で、手を細紐で縛られてすごしていた。留置場は戸塚警察署の建物内ではなく、その裏手にある独立した家屋ないしは張り出し建築だったらしい。検挙当日は、細谷という刑事による短時間の取り調べが行なわれただけで、特に暴力をふるわれていない。筵へずっと座らされたまま夕方を迎えると、留置場では夕食が配られた。
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 夕食。木綿の縞の大風呂敷に朱塗の平べつたい箱が約二十位づゝ二列に積まれてある。その包ミが二ツ。雑役係りといふのがあつて(宇野といふ若い男)それが房の人数だけ配る。看守がみ廻る。看守は一時間交替である。体格のよい若い看守(新田氏)が山崎さんに代る。東北的な、どこか柔和な顔立ちの人。/筵の上の私達女三人にも箱弁が配られる。トン、トン、トン、トン……。房中では、あつちでも、こつちでも箱弁の裏を叩く音でうるさい。最初は何かと思つた。やがて、中身の飯とお菜を蓋にあけて了ふと、味の方に湯を貰ふ。雑役が大声で房の中の人々を怒鳴りつゝ(これは看守にきこえよがしに。)湯を配る。
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 おかずは、湯葉とがんもどきの煮たもの、沢庵がふたきれだったが、矢田津世子はのどにつかえてまったく食べられなかった。留置場の臭気と暑さで、彼女の体調は徐々に悪化していった。ひとりひとり便所へ入ったあと、夜は8時で就寝になる。寝具は毛布1枚だけ支給されたが、真夏なので凍えることはなかった。だが、この日から彼女は夜中じゅうノミに悩まされ、満足に眠れない日々をすごすことになる。
 特高室の取り調べは、絵に描いたような方法で行なわれたらしい。刑事の細谷は、あくまでも矢田津世子へ同情するようにやさしく柔和な取り調べ、つまり“泣き落とし役”を演じ、部長刑事の高原は皮製のムチや竹刀をふるう“脅し役”を演じて、彼女を徹底的に痛めつけた。この役は、それぞれ刑事たちペアにふられていたものらしく、彼女はクールに彼らを観察しつづけ、名前までわかる検事や刑事はフルネームを記録している。
 
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 細谷主任は温厚な人である。いつも伏眼になり、低い控へ目な声でものをいふ。高原部長は私の最も苦手だつた。怒鳴られたのも、おどされたのも、この人である。背のづんぐりしたべつ甲ぶちの眼鏡をかけた人。この人が皮の鞭やしなひをもつと私はぞつとする。又ゴーモンがはじまるからである。阿部さんは好人物である。会社での課長級のかつぷくを供へてゐる。我々に寛大で、夜など暑いからといひ、九時すぎ迄二階においてくれた。誰れも阿部さんをわるくいふ人がなかつた。私を「小母さん」といつてゐた、二人の高橋さん。一人は胸毛のある、赤ら顔の、人のよい高橋さんであり、他は若い顔色のわるい、不愛想な高橋さんである。板倉氏は私の係り。最初のおどかしは今考へてもこつけいであるが、紳士的なところが好もしい。大の月、検事は中村義頼氏。高原部長に抱いたと同じ嫌悪感がこの人にも感じられた。又、本庁の係りの警部は野中満氏。
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 矢田津世子は、細谷を特高室の刑事だと思っていたようだが所属は営業係であり、『戸塚町誌』Click!(1931年)によれば「細谷義」の役職は営業係長で、特高担当ではない。
 ちなみに、全国で特高により拷問死した敗戦までの「思想犯」(共産主義者、社会主義者・自由主義者・反戦主義者・アナーキストなど)は114名、留置場や刑務所での死亡は1,503名、重軽傷者はそれこそ無数でカウントできないが、戸塚警察署ではいったい何人の人間が死傷したものだろう。革製のムチや竹刀で身体をぶっ叩かれた負傷者の中には、当然、矢田津世子も含まれている。
 彼女は共産党へのカンパ容疑(当時の物書きを威嚇し抑圧する、検挙の典型的な口実だと思われる)なので、二度と共産党とは関わりをもたないという手記を書かされ、10日ほどの取り調べ(拷問)と留置で釈放されている。だが、この10日間の異常な生活が、矢田津世子の身体へ取り返しがつかないダメージを与えていた。以降、彼女は肺炎や肋膜を患い、やがては結核へと重症化していくことになる。
 矢田津世子の『獄中の記』は、特高刑事や看守たちの様子を克明に記録しているが、留置場に収監されていた人々を書きはじめたところで、ノートは未完のまま終わっている。おそらく本稿が書かれたのは、記憶も生々しい1933年(昭和8)の秋から暮れにかけてだと思われるが、彼女はつづきを書きたかっただろう。だが、戦争へと突き進む当時の社会情勢から、彼女は執筆や発表をついにあきらめざるをえなかったのではないだろうか。

 ましてや、再び特高に取り調べを受けることにでもなれば、戸塚警察の内情を実名入りで記録したノートが発見・押収されて追及されかねないと考え、執筆を断念したものだろうか。矢田津世子が戦時中の1944年(昭和19)に病死しなければ、おそらく『獄中の記』は書き継がれて完成し、戦後まもなく発表されていたにちがいない。ノートが下落合の矢田邸で発見されたのは、彼女が特高に検挙されてから実に56年ぶりのことだった。

◆写真上:現在は、明治通り沿いに移転している戸塚警察署。それまでは、戸塚町2丁目67番地(現・西早稲田2丁目)にある銭湯「金泉湯」の南側にあった。
◆写真中上:矢田津世子が『獄中の記』でノートに記録した、戸塚警察署内の留置場平面図。赤い×印のところに筵が敷かれ、3人の女たちが寝起きしていた。
◆写真中下:左は、1935年(昭和10)に作成された「戸塚町市街図」にみる戸塚警察署。右は、翌1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる同署。本署建物の南西側に見えている、屋根が白く反射した小さな建築物が留置場だろうか。
◆写真下:ほぼ同時期の1930年に撮影された、牛込区の神楽坂警察署。当時の戸塚警察署も、おそらく似たような意匠の建物だったろう。