1976年(昭和51)の3月、わたしはなにをしていたのかを細かく思い出せる、すでにリアルタイムに近いタイムゾーンだ。なぜ藝大の試験に数学があるのかと、部屋のアグリッパと油絵の具(クサカベ製Click!だったと思う)を横目でにらみながら、あきらめ切れずにため息をついていたころだ。もう、デッサンの練習にはウンザリだった。そのころ連れ合いは、信濃町の杉村春子Click!邸の敷地内にあった演劇研究所の帰途、ロングランをつづける『JAWS』を友だちと観にいき、信じられないサイズのホオジロザメの出現に飛び上がり、映画館のイスから転げ落ちていたころだ。
 そんな時代の目白通りに、「風花(かざはな)」という名の小さなスナック(死語かな?)が開業していた。ママさんは安倍佐恵子という看護師だった人で、交通事故に遭い脊髄を損傷して車イスの生活だった。1975年(昭和50)に開店した「風花」には、近所の下落合や目白に住む多彩な人々が集まっている。画家やインスタレーター、作家、新聞記者、雑誌記者、編集者、イラストレーター、モデル/DJ.、医師、テレビマン、銀行員、ゲームセンター支配人、会社員、新宿ゴールデン街の飲み屋の元経営者……と職種もさまざまだ。この店に通ってきていた人々の間では、まるで喫茶店「桔梗屋」Click!と同様に、下落合の“伝説の店”になっているのかもしれない。
 「風花」が開店していたのは、目白駅から西へ500mほど歩いたところ、目白通りに面した下落合4丁目27番地だ。わたしも学生時代を含め、「風花」の前を頻繁に往来していたはずなのだが、喫茶店ではなく夕方から開店するスナックだったせいか、あまり外で飲む習慣がないので残念ながらまったく憶えていない。おそらく、このサイトをお読みの方の中には、カウンターにいる車イス姿の美しいママさんともども、小さなスナック「風花」を記憶しておられる地元の方がいるかもしれない。ちょうど政治家や陳情団が、庭池のニシキゴイへこれ見よがしにエサをやる首相宅に押しかけ、「目白詣で」という言葉が流行り、その娘が下落合のピーコックストアで買い物をする姿が、ときどき見かけられるようになったころのことだろう。
 経営者の安倍佐恵子は、1973年(昭和48)11月に子どもを保育園にあずけ勤務先の病院へ向かう途中、突然バックしてきたトラックから子どもをかばうために背中を轢かれ、下半身不随になってしまった。それから、2年間の治療とリハビリテーション期間を経て、夫や子どもと別れたあと、30歳で目白通りに「風花」を開店している。北陸・金沢が故郷の彼女は、日本海の空から街へ舞い落ちてくる細かな雪にちなんで店名をつけたものだろう。やがて、あたりが暗い雪雲に覆われる冬を迎える前兆を、当時の心境にあわせて店名にしたものだろうか?

 
 先日、古書店で「風花」に集った人たちが執筆し、1976年(昭和51)3月に発行された『風花』創刊号というミニコミを見つけた。編集後記にも書かれているが、「絶対に二号が発行されると信じている」のは執筆者のひとりだけで、おそらく創刊号で終焉してしまったミニコミ誌のひとつなのだろう。この当時、「ピア」や「シティロード」の全盛時代で、巷には情報誌やタウン誌、ミニコミ誌がどこの街にもあふれており、ネット時代の今日からは想像もつかない紙メディアの爛熟期だった。仲間が数人集まれば、なんらかの情報誌や同人誌、機関誌、文芸誌が企画された時代だ。
 『風花』創刊号には、22人の常連客が執筆しており、内容も多種多様にわたる。目白・下落合界隈のことについても、さまざまな紀行文やエッセイが掲載されているのだが、1922年(大正11)に第一文化村の販売がスタートした目白文化村Click!を「大正十三年」の開発としたり、会津八一Click!の秋艸堂(秋草堂)Click!を「秋林堂」と書いたり、ヒットしていた『JAWS』のホオジロザメを「オオジロザメ」と呼んだりと、ちょっと「あらら」と“赤入れ”したくなる原稿が目立つ。おそらく、執筆する際の誤記というよりは、写植屋さんの「誤植」が見すごされた校正ミスのような気がする。
 そんな中で、当時の空気感が色濃く感じられ、面白く拝読したのは後藤伸という人の書いた『目白あれこれ』だった。著者は男子校の高校生のとき、生徒会で企画した「高校生座談会」のために、女子校にねらいをつけて目白駅前の川村学園Click!を訪れた。だが、「本校生徒をそのような座談会には出席させられない」と、けんもほろろに断られている。おそらく、記述からして1966年(昭和41)前後のことだろう。少しだけ、『目白あれこれ』から引用してみよう。


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 小学生の頃、演劇鑑賞と称してこの大学の講堂まで引卒(ママ:引率)されて来た時には、学生も疎で緑の繁い茂った、いわば幽閑な学林という装を有していた。私達小学生が観た芝居は「王子と乞食」であった。その十数年後、同じ講堂で私はヤマトヤとかワカマツとかいった映画人の作ったシロクロ・フィルムを見ていた。校内は盛り場同様人で混み合い、ほこりっぽく、講堂の向い側にはセメントの塊りのような新築間もない学生会館がそびえ立ち、その窓ガラスは方々が割られ屋上にはコンクリートの破片が散乱していた。そのようなどうでもいいような時期、私は仲間と連れ立ってあの道路の彼岸たる目白の友人宅に一晩やっかいになったことがある。徹夜で疲労し、草煙(ママ:煙草)の吸い過ぎで咽がいがらっぽくなりながら、翌朝、西田佐知子(?)の物憂い歌を聞いた時、道路の此岸も彼岸から大して変わりないことに気付いた。それから幾年かが過ぎ、再び目白の地が具体的な形象を伴って現われてきたのは、私の友人がこの地に新居を構え、「風花」に案内してくれた昨年のことである。彼曰く、「おもしろい店がある。行くベ、行くべ」。
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 著者は、わたしより10歳前後は離れている世代だろうか。その世代特有のキーワードが、文章のあちこちに散りばめられている。「ヤマトヤ」と「ワカマツ」は、映画の大和屋竺と若松孝二のことであり、わたしの世代では前者は映画やドラマ、アニメの脚本家としての印象が強く、後者は池袋の文芸地下あたりで作品のオールナイト上映が行われ、学生時代に朦朧としながら観ていた記憶がある。
 「この大学の講堂」とは、早稲田大学の大隈講堂のことで、「新築間もない学生会館」とは大学当局と学生側が管理運営権を争い、ロックアウト状態がつづいていた第二学生会館のことだろう。わたしの世代では、友だちの間を泊まり歩いても西田佐知子の歌声ではなく、ウェザー・リポートのウェイン・ショーター(ss,ts)が奏でる『In A Silent Way』が流れ、常に「マイルス待ち」の状態だった。友人の「行くベ、行くベ」は、関東地方の海岸線に展開する方言のような気がするけれど、わたしも神奈川の海辺Click!に出かけると、つい口をついて出てしまいそうなフレーズだ。


 スナック「風花」が、いつまで開店していたのかはわからない。ネットの書きこみによれば、安倍佐恵子は1997年(平成9)ごろ50歳余で死去しているようなので、店じまいはもっと早かったのかもしれない。早すぎる死は、脊髄へ受けた重傷にもよるのだろうが、それ以上に、精神的なダメージのほうが大きかったのではないか、そんな気がするのだ。

◆写真上:スナック「風花」があった、下落合4丁目27番地3号の現状。
◆写真中上:上は、1974年(昭和49)に撮影された新宿区信濃町10番地にある杉村春子邸。路地奥の右手にあるオレンジの屋根の大きな西洋館が、演劇研究所が付属する杉村邸。2015年に出版された『新宿区の百年』(郷土出版社)より。下は、1976年(昭和51)3月に発行された『風花』創刊号の表紙(左)と目次(右)。
◆写真中下:上は、1979年(昭和54)の空中写真にみる「風花」周辺。下は、『風花』創刊号に掲載された後藤伸『目白あれこれ』。
◆写真下:1970年代半ばに撮影された、夜の目白駅前(上)と目白貨物駅Click!跡(下)。