1945年(昭和20)4月13日午後11時すぎにはじまった第1次山手空襲Click!で、焼夷弾が雨あられのように国際聖母病院のフィンデル本館Click!に降りそそいだ様子が、当夜、病院に勤務して必死に消火をつづけた医師の証言として残されている。勤務していたのは、下落合2丁目570番地で幡野歯科医院Click!を開業していた幡野義甚だ。おそらく、医師不足から自宅に付属した医院を閉鎖して、聖母病院勤務になっていたのだろう。
 同年5月25日夜半の第2次山手空襲Click!では、B29の編隊が北からやってきたのに対し、4月13日の空襲では南側から飛来している。これは、目白文化村Click!の空襲のとき、B29の編隊が東南上空から飛来したという証言とも重なる。おそらく、米軍は落合地域の地図を参照して空爆計画を立てており、江戸期から清戸道Click!(現・目白通り)沿いでもっとも家々が稠密だった繁華街「椎名町」をねらったものだろう。
 ちなみに、昔ながらの「椎名町」Click!は西武池袋線の椎名町駅周辺ではなく、大正期から昭和初期にかけての地図を参照しても明らかだが、現在の目白通りと山手通りが交差する、長崎と下落合にまたがる一帯の地域名だった。だから、江戸期から明治期にかけ長崎村の「椎名町」であり、落合村の「椎名町」でもあったのだ。米軍は、商店街や住宅が密集して描かれた、1935年(昭和10)以前の地図を参照しているとみられる。
 南側から侵入したB29の大編隊は、おそらく聖母病院のフィンデル本館を目標に、爆撃の照準器を合わせていたのだろう、同病院は大量の焼夷弾をあびることになった。聖母病院空爆の様子を、1967年(昭和42)8月10日に発行された「落合新聞」Click!の、幡野義甚の証言から引用してみよう。
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 聖母病院爆撃
 幡野 当時、私は聖母病院に勤務していて、一切疎開はまかりならんということで、家族もみんなうちにいました。/私は国際聖母病院があるからこの辺は爆撃はないだろうと考えていたわけです。これは私の非常な間違いで、昭和二十年四月十三日、突然、夜ですね。B29の絨毯爆撃、どんどんどんどん無差別に落ちてきましたね。/私は患者を全部地下室に入れまして、それから屋上へ登ったわけです。現在は亡くなられた大越という医長、その人と一緒に屋上にのぼっておりました。/屋上にもずいぶん落ちましたですね、焼夷弾が。それを患者の干したいろいろなもので消したんですが、火災がくるのでのどが乾きましてね。そのうちに、正門に向って右に門衛があったでしょう、それも直撃弾で燃えて、それをみんなで消すわけですね、消火器もいまのような立派なものじゃありません、炭酸ガスの入っている、そういうもので消すんです。いまはあの門はありませんね。
 司会 国際聖母病院は爆弾は落とさなかったと聞いていましたが、受けたんですね。
 幡野 受けたんです。落ちました。あれだけ沢山来たんですから、落とさないわけにはいかんでしょう。(笑い)
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 幡野医師が「爆撃がないだろう」と想定していたのは、国際赤十字による「ジュネーブ条約」(戦時国際法)を意識してのことだろう。この日、東京の山手上空へ来襲したB29は、米軍公開の資料では330機、日本側の発表では160機とも170機ともいわれている。



 この証言でも、戦後になってコンクリート建築で焼け残った病院の周辺へ、米軍は「病院への爆撃を避けた」という結果論的な情報操作(虚言流布)が、おそらくGHQの諜報機関Click!(日本人で組織された諜報・謀略機関Click!含む)によって意図的に流されていたのがわかる。「文化財が多い歴史的な街への空爆は避けた」というデマClick!ともども、1995年(平成7)以降に米国公文書館で次々と情報公開された記録からも明白だ。
 この種のデマは、戦後いち早く広島や長崎へ調査に入った米軍の研究機関によっても流された。2013年(平成25)に岩波書店から出版された綾瀬はるか『「戦争」をきく Ⅰ』(TBSテレビ「NEWS23」取材班)には、病院で治療を受けている重症の被爆患者たちに対し、米軍が「お詫びをして治療するため」に広島へやってくるという説明があった……という証言が採取されている。(片岡ツヨ証言) だが、実際には核兵器による爆撃効果の人体的測定、あたかも核被曝による破壊効果=人体被害のモルモット的な観察・研究・分析のための現地入りだったのだが、この虚言流布がその後につづく意図的なデマ流しによる、世論・情報操作のさきがけのように思われる。
 広島や長崎に流されたのは、占領米軍の諜報機関(デマゴーグ)が地元の自治体ないしは警察を利用し、短期間でバラまいたものと推定できるが、のちの「病院」や「歴史的都市」への空爆を避けたというデマは、より組織的なルートにより占領政策の一環として、当時のマスコミ(へ送りこんだ諜報員)をも動員しつつ、占領下の日本人の抵抗や反感を抑えるために流布されているとみられる。
 証言する幡野義甚の自宅は、聖母病院から東へわずか200mほどの位置にあったのだが、同日の空襲で全焼している。つづけて、幡野医師の証言を引用しよう。
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 焼けるわが家を見詰める
 司会 幡野さんのうちも焼けましたね。
 幡野 焼けました。聖母病院の消火に夢中になっていまして、そのうち「先生のところがあぶないようです。お帰りになって下さい」というんですが、責任感にかられましてね、消すまでやってたんです。しばらくして帰りました。もうそのときはうちの方は焼けておりまして、私のうちのそばに錦袋クラブという寄席がありましたが、そこがすでに焼けていて、私のところは火に包まれていた。それで、息子や家にいた学生と一緒に庭のプールから水を運んでかけると、瞬間的にちょっと消えますが、またすぐパッと燃えてしまう、焼夷弾は熱が強いから。であきらめて、私はプールに入って、すっかり焼け落ちるのを見ていた。自分の家が焼け落ちるのを見るのは、つらいもんですね。大きな戦争の犠牲にしては小さなことかも知れませんが。/あの辺の人は丁度七曲りの方に逃げたんです。大倉さんのいた大倉山に逃げて、一夜を明かしました。
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 文中の「大倉山」は、七曲坂の東側に拡がる大倉財閥が所有していた山で、バッケ坂Click!のひとつ権兵衛坂が通う別名「権兵衛山」Click!のことだ。



 第1次山手空襲のあと、同年5月25日夜半の第2次山手空襲でも国際聖母病院は焼夷弾による空爆を受け、つづけて同年7月ごろ硫黄島から飛来したP51か、あるいは館山沖にやってきた米空母部隊の艦載機(F6F)かは不明だが、フィンデル本館がねらわれて屋上に250キロ爆弾を投下されている。その被害の様子は、以前の記事でも取り上げたが、野方配水塔が繰り返しP51とみられる戦闘爆撃機の機銃掃射Click!を受けているところをみると、聖母病院をねらったのは硫黄島から飛来したP51なのかもしれない。
 日本がポツダム宣言を受諾したあと、ドラム缶にパラシュートをつけ救援物資を抑留者に向けて投下する様子をとらえた、フィンデル本館の屋上写真(1945年8月29日/日本時間)を観察すると、戦闘爆撃機がどのような角度から250キロ爆弾を投下したのかが推測できる。同機は、フィンデル本館の西側から急降下し、同館の東へつづくウィングの屋上めがけて爆撃を加えているとみられる。
 だが、爆弾は屋上の中央には命中せず、ウィングの東端に着弾して炸裂したのが見てとれる。関東大震災Click!の教訓を踏まえて建設された聖母病院は、建物の外壁や屋上が厚さ60cmの鉄筋コンクリートによる“装甲”で覆われていたため、屋上東端の床面をすり鉢状に陥没させはしたものの貫通せず、屋上を囲む外壁つづきの分厚いパラペットにも阻まれて、どうやら跳ね返されているようだ。
 さて、下落合へ雨あられと降りそそいだM69集束焼夷弾だが、直径8cmで長さ49cmほどの焼夷弾の残骸を、戦後に花立てとして改造していたお宅があったようだ。被弾した家庭に数個は保管されていたらしい、膨大な筒状の残骸は近所で穴を掘りまとめて棄てられるか、別の用途に“有効活用”されていた様子が伝わっている。1962年(昭和37)8月15日に発行された落合新聞のコラム、「翠ヶ丘」から引用してみよう。
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 戦前淀橋区内の戸数は四万三千百二十であったが、昭和二十年六月には五千七百九十と減った。約七割四分弱灰燼に帰したわけで、新宿区全体では約九割焼けている。(中略) (焼夷弾は)多い処は一軒に二十数発落ちた家もあるし、当落合新聞の戦前の家約八坪の狭い処にも十四発落ちた。家根をぶち破って畳の上でパチパチ燃えている全く人騒せな奴で、縄箒で叩いたり、水をぶっかけたりしたが、あまり効きめはなかった。戦後はそこここの焼跡で畑を作ると随分出てきたし、ごっそりまとめて埋めた記憶もある。場所も知っているが最早やその上に家が建っている。あれから十七年、残り少なくなると珍しくなり、最近では物騒な火薬を詰め込まれるよりも花のほうがいいと、花立などに化け平和な雰囲気をかもし出しているお家もあった。(カッコ内引用者註)
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 以前にも書いたが、わたしの祖父は撃墜されたB29の、ジュラルミンでできたパイプ状の破片をコッソリ持ち帰り、切断・改造していくつかの書画用筆立てに“活用”していた。直径15cmほどはあった銀色に光る筒だが、大きさのわりには驚くほど軽かったのを子ども心に憶えている。当時は、いまだ戦争のキナ臭い遺物が、よく見ると日常のあちこちに転がっていた時代だ。おそらく、祖父が死ぬと棄てられてしまったのだろうが、あのとき祖父にねだっておかなかったのが、いまさらながら悔やまれる。当時の“モノ”が身近にひとつでも残っていれば、よりリアルに「戦争」を子孫へ語り継げたのにと思うのだ。

◆写真上:250キロ爆弾が命中した瞬間、このような閃光が屋上で光っただろうか?
◆写真中上:上は、第1次山手空襲が行われる11日前の1945年(昭和20)4月2日に米軍の偵察機が撮影した空中写真。中は、1945年(昭和20)5月17日に米軍偵察機によって撮影された国際聖母病院界隈の空中写真。同年5月25日の第2次山手空襲のために、乃手の焼け残り地区を撮影したものとみられる。下は、同年7月ごろに聖母病院のフィンデル本館をねらって投下された250キロ爆弾の想定投下-着弾の軌跡。1945年(昭和20)8月29日(日本時間)に聖母病院上空で撮影された、救援物資の投下写真へ描き加えたもの。
◆写真中下:上は、別角度からの救援物資の投下写真にとらえられた東ウィングの破壊地点拡大。中は、戦前のフィンデル本館写真へ250キロ爆弾の投下-着弾の想定軌跡を描き加えたもの。下は、昭和初期に撮影された東ウィングの屋上と着弾位置。
◆写真下:上は、1967年(昭和42)の夏に落合新聞主催で開かれた座談会で、左端の人物が幡野歯科医院の院長・幡野義甚。中は、落合新聞1967年(昭和42)8月10日号の座談会記事。下は、落合新聞1962年(昭和37)8月15日号に掲載された焼夷弾コラム。