以前、太平洋戦争中に駆逐艦「巻波」の水雷長(魚雷戦の指揮官)として勤務し、1943年(昭和18)2月のブカ島沖夜戦で戦死した下落合の稲垣米太郎Click!をご紹介したが、今回は1942年(昭和17)11月に第三次ソロモン海戦で撃沈された駆逐艦「暁」で同じく水雷長をつとめていた、のちに下落合の日本聖書神学校Click!(建物は通称メーヤー館Click!)の校長になる海軍中尉・新屋徳治の物語だ。
 1942年(昭和17)11月13日に、ソロモン海域で行われたガダルカナル島をめぐる艦隊同士の夜戦は混乱をきわめた。日本側の呼称では第三次ソロモン海戦、米側ではガダルカナル海戦と呼ばれる同戦闘で、日米両軍は大きな被害をだしている。「夜戦が得意」だったはずの日本海軍だが、このガダルカナル島をめぐる一連の海戦で日本側は戦艦2隻を失うなどより大きなダメージを受けた。
 戦闘がどうやってはじまったのか、日米両軍ともハッキリとはつかめていない。日本艦隊は、ガダルカナル島のヘンダーソン飛行場を砲撃する目的で出撃しており、戦艦2隻の主砲には飛行場の設備を焼き払う三式弾(おもに対空戦闘用の収束焼夷弾頭)が装填されていた。米艦隊はレーダーが十分に機能せず、先頭を航行していた駆逐艦が、日本艦隊の出現に驚いて転舵したことで、米艦隊は混乱におちいった。同時に、日本艦隊は米艦隊の出現に驚愕して艦隊戦を決定するが、かんじんの戦艦2隻の主砲には砲撃戦用の徹甲弾が装填されていなかった。
 米軍側は、日本艦隊の先頭を航行していた駆逐艦「暁」の探照灯(敵艦を照らして味方艦の砲撃を支援する大型ライト)照射からはじまったとしているが、日本側は敵味方不明の吊光弾により、なしくずし的に戦闘がはじまったとしている。戦闘は混乱をきわめ、日米両軍とも何度か味方の艦を誤射し、同様に日米艦隊ともに味方の艦から反撃を受けて大きな被害をだしている。このとき、日本艦隊で緒戦に損害を受けたのは、探照灯で米艦隊を照らし、格好の攻撃目標となってしまった駆逐艦「暁」だった。「暁」に水雷長として乗艦していた新屋徳治の証言を、1975年(昭和50)に聖文舎から出版された『死の海より聖壇へ』から引用してみよう。
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 グァーン!!/ものすごい音響とともに目の先がくらむ。足もとがぐらぐらっとする。《あっ》という間もなく、抵抗することのできないすさまじい爆風の圧力が、私の体を艦橋の甲板上に吹き倒してしまった。《やられた》と直感する。どこかわからないが、すぐ近くに敵弾が命中したのだ。《ああ、これで自分は死んで行くんだな》。一瞬、どこかに引き入れられるような、気が遠くなるような、静かな気持ちに襲われる……。だがしかし、どうも死んではいないらしい。次の瞬間には《なにくそ》と、反射的にわれとわが心に叫んだ。/腰から上を起こしてみると、起きることができた。頭全体がガーンとしてしまい、右の頬が熱い。右の目には前額から血がたれてくる。この砲弾の炸裂で、すっかり心機転倒、あがってしまっていた。(中略) 司令が振り返って、「取舵」と言う。/後を向くと、そこにはもう操舵員の姿は見えなかった。どこに吹き飛ばされたのか。死んでしまったのであろう。そこで、尻餅をついたままの姿勢で自分が舵を動かしてみると、もう舵輪はぶらぶらで役をなさない。/「舵ききません」と答える。/敵の一弾は、艦橋の操舵装置を破壊し去っていた。
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 「暁」は舵と機関に被弾し、米艦隊の洋上へ取り残されて停止した。艦体は、左舷に傾きながら沈みはじめていた。艦橋で生き残ったのは艦長と航海長、そして新屋水雷長のわずか3人だけだった。ほどなく「暁」は沈没し、新屋徳治は海へ投げ出された。彼は近くに大きく見えている、ガダルカナル島をめざして泳ぎ着こうとした。
 それからの新屋は、「いかに死ぬか」だけを考える主体になっていく。「帝国軍人」は、「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓をたたきこまれていた。米軍の艦船が近づくと、発見されないようにできるだけ離れるようにして泳いでいた。だが、一昼夜も泳いでいるうちに、徐々に体力がなくなっていく。ついに米艦に発見された彼は、上陸用舟艇へ収容されそうになるが、「No thanks(けっこう)」といって舟艇から離れようとする。しかし、すでに体力を使い果たしていた新屋は泳げず、2人の水兵に引き揚げられてしまった。
 それから、彼は死ぬ機会をうかがいながら南洋の島々に設置された臨時の捕虜収容施設を転々としていく。最終的には、ニュージーランドの正式な捕虜収容所に落ち着くのだが、その過程はすべて容易に「死ねない」自分の「弱さ」との葛藤に費やされた。
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 (前略)穏健派の人々の考えは、われわれが死ねないでこうして生きている以上、それが最善の道ではないにせよ、捕虜条約の規定に従って、その中で生活するよりほかにないというのである。これはきわめて穏健な考え方ではあるが、それとてもわれわれの気持ちを満たしてくれるものでもない。結局つまるところは、生きていてはならないものが生きているという事実、日本軍隊のみのもつ特殊な伝統に、すべての矛盾、混乱の源があった。
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 捕虜収容所には新聞や雑誌、日・英語の書籍類、楽器などがもたらされ、クリスマスにはケーキや菓子類などが周辺の慈善団体や住民から差し入れられて、収容者たちは日米戦争の戦況を正確に把握することができていた。大本営が、ラジオを通じて華々しい「戦果」のデマを流しているころ、確実に追いつめられてあとがない絶望的な日本の状況を、収容者たちはクールに観察することができた。
 そんなとき、新屋徳治は収容所に備えられた図書コーナーで、徳冨蘆花の文章に出あう。少し長いが、『死の海より聖壇へ』から再び引用してみよう。



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 この文章というのは、あの日露戦争が終わったころであったか、私の記憶にもしも誤りがなければ、彼が当時の第一高等学校の学生に対して行なった一場の講演であり、題して『勝の哀しみ』という。/これを最初に読んだ時はそれほどにも感じなかったのであるが、それでも何か印象を残し、それからしばらくおいて、つれづれなるままに二回、三回と読むうち、次第に強く私の心を惹きつけてきた。捕虜という予期しなかった境遇に落ち込むことにより、はじめて深刻な人生の問題に開眼させられ、人間とか世界とか歴史といったことが、何が何やらわからなくなった現在の自分、しかもそれゆえに死と懐疑と苦痛の中に悩む現在の自分が、なんとかして得たいと求めているものに、この文章は一条の光を投げかけ、新しい希望と勇気とを奮い起こさせてくれるのであった。(中略) 蘆花はここで永遠なるものにわれわれの心を向ける。それのみがすべてを価値づけ、決定すると説く。「戦勝が却って亡国の基となるかもしれない。或は世界大乱の基となるかもしれない」。この言葉は、いまから何十年も前に語られたのであろう。しかし現実の世界を眺めたとき、あまりにもよく状況が符合しているように見えるその真実さが、恐ろしいほどであった。私はいま戦われている太平洋戦争に、日本が負けるとは日本人として思いたくもなかった。しかし他方ではこの言葉のように、日本はそのすべてをなくしてしまうのではないかといった予感にまとわれざるを得なかった。この言葉は、何か偉大な予言として私に迫るのを覚えた。それとともに、彼の言う「一刻の猶予を容れざる厳粛なる問題」が、私の心の中に、それこそ一刻の猶予を容れない切実な問題として自覚され始めた。
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 この時点で、若い彼は軍人として、あるいは戦前の学校教育などで叩きこまれた「マインドコントロール」の呪縛から解き放たれ、多角的なものの見方や広くて自由な発想、新たな世界観や社会観、そして人間観を主体の中で再構築するきっかけをつかんだのだろう。ほどなく、徳冨蘆花の「予言」どおり明治政府由来の大日本帝国は、連合軍の前に完膚なきまでにたたきのめされ、膨大な犠牲者をともないつつ敗戦と亡国状況を招来することになった。
 新屋徳治は、それまで見向きもしなかった収容所に備えつけの聖書を読みはじめ、捕虜生活の末期にニュージーランドの牧師から洗礼を受けている。そして、新たな“愛国者”となった新屋の、この間の心の葛藤や心理的な推移は、とてもひとつの記事では書ききれないので、ぜひ『死の海より聖壇へ』を参照いただきたい。
 1946年(昭和21)2月、新屋徳治は長い捕虜生活を終え、ニュージーランドから横須賀へ引き揚げてきた。両親と姉の家族は全員無事だったが、3年前の1942年(昭和17)に彼の葬儀はとうに済ませており、彼の姿を見た牛込区(現・新宿区)に住む姉は驚愕している。引き揚げから2ヶ月後、下落合に創立された日本聖書神学校へ入学し3年後に卒業したあと、日本各地の教会へ赴任。やがて同書の第2版が出版されるころには、下落合3丁目14番地の日本聖書神学校(メーヤー館Click!)の校長へ就任している。

 
 同書は、1957年(昭和32)に待晨堂書苑から新屋徳治『死の海より講壇へ』と題されて出版されたのち、1975年(昭和50)に聖文舎からタイトルを『死の海より聖壇へ』と改めて再出版され、1988年(昭和63)より同出版社から同じタイトルで、つづいて『死の海から説教壇へ』と改題されて版を重ねている。最新版は、下落合のご子孫の方からお借りすることができた。ありがとうございました。>新屋様

◆写真上:移築直前に撮影した、ヴォーリズ設計のメーヤー館(日本聖書神学校)。
◆写真中上:上は、日米開戦直前の昭和15年前後に僚艦から撮影された駆逐艦「暁」。下は、1975年(昭和50)に聖文舎から出版された新屋徳治『死の海から聖壇へ』(左)と、同出版社から新装再版された1988年(昭和63)の同書(右)。
◆写真中下:上は、1912年(明治45)の竣工間もない目白福音教会Click!の宣教師館(のちの日本聖書神学校)。中・下は、千葉県東金へ移築された同館。(小道さんClick!撮影)
◆写真下:上・下左は、メーヤー館の内部。(同じく小道さん撮影) 下右は、タイトルを『死の海より説教壇へ』(聖文舎)と改題した最新刊。