下落合4丁目2095番地(のち2096番地)に建てられていた、島津製作所の島津源吉邸Click!母家と、その東隣りに建設された島津一郎アトリエClick!など、敷地内の全体像がつかめてきたので、写真類も含めまとめて書きとめておきたい。不鮮明だった間取り平面図も、改めて各階の鮮明な図面を入手したので、手もとにある炭谷太郎様Click!などからいただいた写真とともに、撮影ポイントを規定しておきたいと思う。
 また、1932年(昭和7)に作成された、島津邸の敷地に建てられている建物配置図「豊多摩郡落合町大字下落合字小上二〇三八/二〇九六番地家屋配置実測図」(以下「島津邸実測図」)と、1938年(昭和13)に作成された「火保図」とを見くらべていると、面白いことに気づく。この6年間で、建物の一部が移動しているのだ。その建物とは、現在、島津一郎アトリエの東隣りへ接するように建っている、島津一郎の「彫刻アトリエ」と伝えられている小さな建物だ。本来の建っていたと思われる位置から、南へ20mほどずれて移築されているとみられるのだ。
 東京美術学校を卒業し、満谷国四郎Click!へ師事していた島津一郎Click!は、1931年(昭和6)の刑部人アトリエClick!の竣工とあい前後するように、島津邸母家の東側へ吉武東里Click!設計の巨大な絵画制作用のアトリエを建てている。このアトリエは下落合はおろか、日本全国でも最大クラスの規模のアトリエ建築だろう。それとほぼ同時期だろうか、アトリエの北北東に小さな「彫刻アトリエ」を建設しているようだ。1932年(昭和7)作成の「島津邸実測図」には、すでに小さな建物が北側の道路沿いに描かれている。だが、6年後の「火保図」では、この小さな建物は20m南側へと移動し、しかも従来の建物の向きではなく、反時計まわりに90度異なる角度で移築されているように見える。
 広くゆったりとした島津邸の敷地にもかかわらず、この「彫刻アトリエ」の移築はなぜ行われているのだろうか? 島津一郎自身が、絵画と彫刻のアトリエ同士が20mほど離れていると、なにかと使いにくかったから……というような理由ではないように思われる。「彫刻アトリエ」の移動によって、島津邸敷地の北側接道沿いには住宅を2棟ほど建てられる、300坪ほどのスペースができることになる。ひょっとすると、島津家による三ノ坂と四ノ坂にまたがる大規模な宅地開発Click!(その出発点は、大正期の東京土地住宅Click!によるアビラ村Click!開発にまでたどれるだろう)と、どこかで連携している事象なのかもしれない。





 さて、島津邸の母家へ話をもどそう。島津邸は、上落合470番地に住んでいた建築家・吉武東里Click!と、同じく吉武邸から数分の近所に住んでいたとみられる大熊喜邦Click!とのコラボレーション設計で、1920年(大正9)に建設されている。一説には、1917年(大正6)とされる記述も見えるが、1921年(大正10)現在の1/10,000地形図では島津邸の位置に、いまだ建物は採取されていない。だが、1921年(大正10)に建設された上落合470番地の吉武東里邸は採取されているので、島津邸は母家が竣工していたものの、敷地内でなんらかの工事(たとえば造園や築垣工事など)が継続していたのではないかと思われる。1/10,000地形図は、おしなべて工事が完全に終わっていない住宅は、図面に採取しない傾向が多々見受けられるからだ。
 建物平面図を見ると、東西で洋館と和館が分かれた島津邸には、書斎が4部屋もあったことがわかる。洋館の2階にあるもっとも大きな書斎は、「書斎兼客間」と書かれているので、訪問客が宿泊する際の寝室としても使われたのだろう。面白いのは、和館の西端2階にポツンと独立して設置されている、8畳サイズほどの書斎だ。和館にあるトイレの廊下突き当たりの壁の向こう側(北側)、納戸に接して“隠し階段”が設置されており、この書斎へは母家のどの部屋や廊下を通ってもたどり着けない。いったん庭へ出て、母家を北へ大きく迂回しながら、北面の中庭に面した外扉を開けて入らないと、この書斎へつづく階段は発見できない仕組みになっている。



 おそらく、この西端2階の独立した書斎が島津源吉の「本書斎」であり、他の3つの書斎は訪問客の目を意識した、いわば表向きの書斎だったのではないだろうか。洋館2階に設置された書斎3室は、いずれも来客の目に触れるか、あるいは来客が多い場合はすべて客室として使われていた可能性が高いように思える。そう考えると、母家の西端2階に設置された「本書斎」は1階部が納戸であり、この納戸には書斎に収まりきれなくなった膨大な蔵書類などが、一括して収納されていたのではないだろうか。
 もうひとつの特徴は、書斎(来客用に転用部屋含む)が多いのに対して、トイレは3つあるものの、浴室がひとつしか存在しないことだ。家族が増え、また宿泊する来客が多いときには、ひとつしかない浴室にかなり不便を感じたのではないだろうか。もっとも、現代のように毎日風呂に入る習慣のない当時としては、それほどの課題ではなかったのかもしれないが……。そのかわり、多くの宿泊客があったとしても、食事の準備はそれほど困難ではなかったと思われる。10畳サイズほどはあったとみられる広い台所には、海外製のキッチン設備を含む最新式の機器類が揃っていた。



 今年の夏、島津邸敷地の北側道路に接した住宅が、建て替えのために解体された。それにともない、島津一郎アトリエの採光窓がある北面を、おそらく中谷邸Click!と同様に50年ぶりぐらいで観察することができる。(冒頭写真) 南側へ20mほど移築された「彫刻アトリエ」は、現在赤土がむき出しの更地となっている敷地の、左端(東側)へややかかる位置に建っていたと思われる。

◆写真上:北側の接道から眺めた、巨大な採光窓のある島津一郎アトリエの北面。
◆写真中上:上は、1932年(昭和7)に作成された「島津邸実測図」と、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる島津邸敷地。中は、島津一郎の「彫刻アトリエ」と伝えられる小さな建物。下は、竣工直後とみられる島津邸の外観。
◆写真中下:上は、撮影ポイントを描き入れた島津邸の平面図。中・下は、島津邸の洋館部にあったテラスへ抜けられる応接室と庭へ出られる談話室。
◆写真下:上は、談話室から和館部の廊下方向を眺めたところ。中は、籐椅子が置かれた和館部の廊下。下は、最新設備が導入された台所。この写真の撮影時、台所中央に置かれた調理カウンターは、平面図の採取時より角度が90度変更されていたようだ。