大正末の出版界は、関東大震災Click!の深い痛手から立ち直れず、業界は不況にあえいでいた。本のもとである用紙のストックが大震災で大量に焼失し、印刷機や裁断機、製本機なども破壊された。用紙は値上がりし、印刷・製本に必要な機器類は改めて購入しなければならず、新たに膨大な設備投資が発生することになった。
 余談だけれど、東日本大震災のとき、さまざまな用紙が少なからず値上がりしたのが記憶に新しい。大量の用紙ストックが、東北地方の倉庫に保管されていたため被害を受け、また被害が少なかった倉庫でも交通網の寸断で、東京の印刷工場へジャストインタイムで配送できなくなってしまったのだ。破壊された印刷・製本機器も少なくなかった。ご存じの方も多いだろうが、これらの機器は構造が数ミリ歪んでわずかな誤差を生じただけで、もはや使いものにならない。
 大正末の出版不況を打破したのは、円本ブームと呼ばれるシリーズ本の大量出版だった。円本ブームに火をつけたのは、改造社が企画した『現代日本文学全集』だった。当時、改造社は出版不況にあえぎ、倒産の危機にさらされていた。1円本の出版は、書店での一般売りはせず全巻予約制という、これまでにない薄利多売の販売方法を採用していた。上製本が1円というのは、当時の函入り単行本の価格からするとケタちがいに安い。大正末の本の価格は、一般書籍なら数円、高級な専門書なら10円前後はしていた。
 1926年(大正15)12月、改造社は社運を賭けた『現代日本文学全集』の第1回配本『尾崎紅葉集』を刊行している。全集の予約者は、すでに23万人に達していた。殺到する予約状況をみた改造社は、「こりゃいける、やった!」と胸をなでおろしていただろう。そのころ、やはり「こりゃいける!」と改造社の様子を注視していた企業があった。同様に出版不況にあえいでいた、製本会社の共同製本だ。
 共同製本は、思いきった賭けに出た。これからは1円本がブームになると判断した経営陣は、ドイツのブレーマー社が製造した糸篝(いとかがり)機を模倣し、国産糸篝機を20台まとめて国内の製作所へ発注した。池袋の加藤製作所が製造した製品が、糸篝機の国産第1号となる。上製本の部門では、糸篝機の国産化や各種機器の増設、同部門へベテラン工員を集中配置するなどの体制を整えていった。そして、共同製本のマーケット読みは、まさに的中した。
 大正末から昭和初期にかけての円本ブームは、出版界の不況を一掃することになった。共同製本へは改造社をはじめ、講談社、新潮社、中央公論社、平凡社、博文館などから全集ものを中心に注文が殺到した。あまりの発注量に、同社のベテラン工員37人を動員した上製本の作業場は、すぐさまパンクした。


 ちょうどそのころ、共同製本の会長・金子福松が共同で経営していた製紙工場が閉鎖された。下落合64番地に設立された合資会社の池添製紙所は、社長の池添馬太郎の急死によって操業が頓挫していた。その工場を金子が譲り受け、共同製本の上製本工場に改造したのは1928年(昭和3)4月のことだった。そのときの様子を、1962年(昭和37)に共同製本から出版された『共同製本と金子福松』から引用してみよう。
  ▼
 ここにおいて、当社は昭和三年四月、府下豊多摩郡落合町下落合(現在の新宿区下落合)に、敷地五百坪、平屋建工場二棟(旧池添製紙工場)、建坪二百九十坪を入手、上製本専門工場として発足した。/当時、落合分工場の付近は、いわゆる新開地で、いまだ武蔵野のおもかげをのこし、人家もすくなく、工場前には、村山、所沢方面行の、西武電鉄の軌道のみが、いたずらに光り、背後には学習院の森が、うっそうと茂り、付近には大黒葡萄酒工場はじめ、製紙工場、鉄工場の煙突が目につく程度だった。/落合分工場は、会田豊太郎分工場長以下、従業員およそ百名、当時の従業員中で、現在も当社に籍をおく者に片山茂、中村義三諸氏その他がある。分工場の機械設備は、裁断機二台、糸かがり機(池袋、加藤製作所製、国産品として最初のもの)十六台、針金綴機二台、ならし機一台、締機(大小)二台、パッキング二台、見返し締機一台、軽便箔押機三台、ドイツ製三段式自動巻取箔押機一台などであった。
  ▲
 同書には、池添製紙所の社長が「池添島太郎」と記述されているが、『落合町誌』によれば池添馬太郎の誤りだと思われる。下落合64番地の池添製紙所は、藤稲荷社Click!から南につづく南北道の西側に建っていた大きな工場で、現在ではその半分の敷地が十三間通りClick!(新目白通り)の下になっている。その工場の建屋をそのまま活用するかたちで、共同製本の上製本工場が設立された。
 文中に「学習院の森」と書かれているのは、今日の学習院大学キャンパスのことではなく、工場のある背後(北側)の丘上から斜面にかけての下落合406番地、すなわち近衛町42号・43号Click!の敷地に建設されていた学習院昭和寮Click!の森のことだ。また、共同製本の上製本工場は、文中に登場している下落合10番地の大黒葡萄酒工場Click!から、西へ工場2棟ほど隔てた位置に建っていた。「従業員およそ百名」は、男ばかりでなく女性の工員も含まれている。


 
 下落合の共同製本工場では、出版各社の全集ものやシリーズものを中心に開業早々からフル稼働をはじめ、昭和初期を代表する書籍群を世に送りだしている。ちょっと挙げただけでも、改造社の『経済学全集』、講談社の『講談全集』『修養全集』『落語全集』、アルスの『日本児童文庫』、平凡社の『現代大衆文学全集』、新潮社の『世界文学全集』、春陽堂の『明治大正文学全集』、日本評論社の『現代法学全集』、博文館の『帝国文庫』日本名作全集刊行会の『名作全集』……などだ。
 大正末からはじまった円本ブームは、大恐慌をはさんで5年ほどつづいている。でも、1930年(昭和5)を迎えるころからブームが落ち着きはじめている。どの家庭にも、なんらかの全集本Click!がいきわたり、全巻購入したはいいけれど流行りに乗ってみただけで、結局は読まないじゃんか……と気づいたからだろうか。下落合の共同製本工場は、1930年(昭和5)5月にその役目を終えて、白山御殿町の分工場と合併している。再び、『共同背本と金子福松』から引用してみよう。
  ▼
 下落合の分工場は、全集物専門工場として、およそ三年間存続の予定で計画し、設置したものだった。/ところで、昭和五年五月、さすがの全集物流行も、ようやく、下火となり、下落合分工場も、一応その役目を果したので、これを機会に、本工場および、白山御殿町の福山分工場(管理人福山富五郎氏)と下落合分工場を合併し、それまでの個人組織を、会社組織に改め、資本金二十一万二千円の合資会社共同印刷製本部と改称した。
  ▲
 
 
 さて、昭和初期に急死した池添製紙所の池添馬太郎だが、弟の池添馬吉も印刷関連の事業を起ち上げていた。六ノ坂上の東側、下落合(4丁目)2123番地に住んでいた池添馬吉は、製本に不可欠な印刷用紙の折りを行う、江戸川兄弟折紙場を経営していた。ここでいう「江戸川」Click!とは、もちろん今日の神田川のことで、おそらく製紙業や印刷業の多い江戸川橋の近くに工場を設立したものだろう。

◆写真上:共同製本の上製本部門、下落合分工場のあった下落合64番地の現状。
◆写真中上:上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる池添馬太郎の池添製紙所。下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる共同製本下落合分工場跡。
◆写真中下:上・中は、下落合分工場で円本の製本作業をする約100名の従業員たち。下は、当時の典型的な円本仕様をした平凡社『新進傑作小説全集』の表紙(左)と奥付(右)で、写真は第5巻の「片岡鉄兵集」Click!。
◆写真下:上は、改造社の『現代日本文学全集』(左)と講談社の『落語全集』(右)。下左は、新潮社の『世界文学全集』。下右は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる江戸川兄弟折紙工場を経営していた下落合4丁目2123番地の池添馬吉邸。