手もとに、1937年(昭和12)2月に発行された、目白通りを走る東京環状乗合自動車Click!(東環バスClick!)と、聖母坂を走る関東乗合自動車Click!の停留所を記載した路線図がある。現在のバス路線でいうと、目白通りの東環バス停留所は新宿東口から曙橋、江戸川橋を経由し、練馬駅前あるいは練馬車庫(桜台)へと向かう、都バス「白61系統」に相当する路線バスだ。東環乗合自動車は、もともと目白通りを走っていたダット乗合自動車Click!を合併・吸収した路線バスだった。もちろん、ダット乗合自動車が運行していた時代とは、バス停の位置もその名称も変わっていると思われる。
 この路線図を見ると、下落合のバス停が現在の名称とは大きく異なっているのが、とても面白い。目白駅から東側、つまり目白駅から新目白坂を下って江戸川橋Click!へと向かうバス停は、ほぼ現在と同じ名称なのがわかる。現在は、「目白駅前」-「目白警察署前」-「鬼子母神前」-「高田一丁目」-「日本女子大前」…だが、昭和初期には「目白駅前」-「学習院前」-「目白警察前」-「千登世橋」-「鬼子母神前」-「高田本町」…と小刻みに停留所があり、距離があまりに近いため廃止になってしまったバス停はあるものの、基本的に停留所の名称はそれほど変わっていない。
 ところが、目白駅から西側につづく下落合の停留所名が、いまとはまったく異なっている。現在は「目白駅前」-「下落合三丁目」-「下落合四丁目」-「聖母病院入口」-「目白五丁目」-「南長崎二丁目」…とつづくが、当時は「目白駅前」-「貯金銀行前」-「家庭組合前」-「落合交番前」-「東京パン前」-「郵便局前」-「中央薬局」-「椎名町百花店前」-「椎名町」…と、いまに共通するバス停名称がただのひとつも存在しない。だが、1941年(昭和16)に作成された「淀橋区詳細図」を参照すると、バス停の数が半分に減っている。つまり、目白駅の東側と同様に距離があまりにも近すぎるバス停が、戦前からすでに廃止されているのがわかる。
 このことから、東環乗合自動車が設置していたバス停が大きく改変され、ほぼ現在と同じバス停の数に再編されたのは、1937年(昭和12)から1941年(昭和16)までの4年間のどこかであることがわかる。残されたバス停は位置的に見て、町名変更Click!が行われた1966年(昭和41)以降にふられた現在の「下落合三丁目」はすなわち「家庭組合前」、いまの「下落合四丁目」に相当するのは「落合交番前」か「東京パン前」、「聖母病院入口」に相当するのは「郵便局前」または「中央薬局」、「目白五丁目」に相当する「椎名町百花店前」、そして「南長崎二丁目」に相当する「椎名町」ということになる。
 ここで「椎名町」という名称が頻出するが、別に当時のバス路線のコースがいまとは異なり、武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)の椎名町駅のほうへ曲がっていったわけではなく、椎名町の位置概念が江戸期からつづく認識のまま、すなわち長崎と下落合にまたがる街道の清戸道Click!(現・目白通り)沿いに拡がる街並みとして認識されていたということだ。むしろ、武蔵野鉄道の椎名町駅が、本来の長崎村椎名町または落合村椎名町の位置から、大きく北へとズレた位置に設置されている。



 この「椎名町」バス停は、関東乗合自動車(現・関東バス)の停留所名にも採用されている。「小滝橋」から北上する関東乗合自動車は、西武電鉄の踏み切りをすぎてから「下落合駅前」-「下落合」-「国際聖母病院前」…と聖母坂を上がってくる。そして、聖母坂上にターンテーブルが設置されていたあたり、つまり現在の上智大学目白聖母キャンパスの北側あたりにあった終点、目白通りへ出る直前の停留所名が、やはり「椎名町」だった。これを見ても戦前までの認識が、目白通りの南側にあたる下落合の街並み、および北側にあたる長崎(のち椎名町)の街並みが、ともに江戸期と変わらずに椎名町のままだったことがわかる。
 先にも書いたように、東環乗合自動車にも長崎バス通りClick!、すなわち通称「目白バス通り」Click!へ斜めに入る直前にも「椎名町」(現「南長崎二丁目」)のバス停があり、関東乗合自動車の聖母病院近くに設置された終点「椎名町」のバス停(現在は廃止)ともども、混同してまぎらわしい。当時の住民たちは、「椎名町」のバス停と聞くと「東環バスと関東バスのどっちの停留所?」と、いちいち確認をしていたにちがいない。両停留所は、直線距離でさえ450mほども離れていた。
 さて、東環乗合自動車が設置したバス停には、当時の目白通り沿いにあった施設や店舗名が採用されている。目白駅にいちばん近い「貯金銀行前」は、目白通りの北側にあたる目白町3丁目1720番地あたりに開店していた国内貯金銀行のことだ。次の「家庭組合前」は、目白中学校の跡地に建設された下落合1丁目437番地の落合家庭購買組合Click!のことで、現在の「下落合三丁目」バス停に相当する。つづいて「落合交番前」は、下落合1丁目494番地にあった下落合二派出所のことで、つい先ごろ廃止されたピーコックストアや喫茶店「ポラーノ」に隣接した交番だ。



 次の「東京パン前」は、1927年(昭和2)に作成された淀橋区の「大日本職業別明細図」を参照すると、下落合2丁目574番地付近に東京パンClick!を販売する店舗が採取されている。また、1938年(昭和13)の「火保図」にも店舗の建物は描かれているのだろうが、ネームまでは採取されていない。「郵便局前」は、下落合2丁目567番地にあった落合長崎郵便局Click!、すなわち現在の新宿下落合四郵便局の前にあったバス停だ。
 さらに、「聖母病院入口」に相当する「中央薬局」は、先の「大日本職業別明細図」には中央クスリと採取されている聖母坂への入り口近く、下落合2丁目638番地にあった薬剤店だ。「椎名町百花園前」も、一見店舗名を採用したと思われる名称だが、どの地図を参照してもそのようなネームの植木屋も生花店も発見できない。ひょっとすると、戦前まで落合府営住宅Click!の中にあった、「火保図」では遊園地として記載されている下落合3丁目1500番地の公園緑地の名称が、通称「百花園」だったのかもしれない。
★「椎名町百花園」は「椎名町百貨店」の誤りで、わたしのそそっかしい誤読が判明した。詳細は、下欄のしいなまちお・Kさんのコメントを参照。
 小刻みに設置されていた東環乗合自動車のバス停だが、太平洋戦争の少し前に現在のバス停の数に再編されいる。それは、バスの車両自体の性能が向上しスピードを出せるようになったため、バス停同士が近すぎるノロノロ運転だとあまり利便性を感じなくなったせいがあるだろう。また、大正から昭和初期にかけ雨が降ると泥のぬかるみになった目白通りだが、少なくとも城西の主要幹線道路の1本として路面に砂利やコンクリートを敷いて固めるなど、道路自体の整備が進んだという要因もあったのかもしれない。ちなみに、目白通りの本格的なアスファルト舗装Click!は戦後になってからのことだ。



 さらに、自家用車の普及も大きなファクターのひとつだろうか。昭和10年代になると、下落合に建っていた多くの邸では車庫の設置が目立つようになる。住宅の前の道路と車庫の出口を水平にするため、宅地の周囲にあった大谷石による築垣や縁石が、次々と壊されていくようになる。目白通りの交通もスピードや効率化が求められ、それに合わせてバスの運行スピードもアップするとともに、バス停の数も再編されていったのだろう。東京環状乗合自動車は太平洋戦争の開始後、1942年(昭和17)2月に東京市電気局へ事業を丸ごと譲渡している。

◆写真上:東京環状乗合自動車と同ルートで目白通りを走る、「白61系統」の都バス。
◆写真中上:上は、1937年(昭和12)2月に発行された東環乗合自動車の路線図。中は、長崎バス通りの営業所前に集う東環乗合自動車。(以下、当時の写真提供は小川薫様Click!) 下は、1941年(昭和16)の「淀橋区詳細図」に記載された目白通りと聖母坂のバス停。
◆写真中下:上は、東環乗合自動車を運転するドライバー。中は、桜台にある練馬車庫で撮影されたとみられる東環乗合自動車。下は、現在も聖母坂を走る関東バス。
◆写真下:上は、関東乗合自動車のターンテーブルが設置されていた聖母坂上の終点「椎名町」付近の現状。中は、1938年(昭和13)の「火保図」からターンテーブルの設置位置と思われる空き地。関東乗合自動車の車庫のひとつは、聖母坂の下にあった。下は、昭和10年代の目白駅近くの目白通りで、なんらかの舗装処理がなされているように見える。左に写る女性は、東環乗合自動車のバスガール。