どこまでいっても終わりのない取材と調査と文章書きにとり憑かれて、この11月24日で丸12年になった。きょうの記事から13年目に入るのだが、2004年(平成16)から十二支がひとめぐりし、訪問していただいた方々(PV)は東京都の人口を、そろそろ超えようとしている。単純計算で平均すると、ひとつの記事に7,000人以上の方々がアクセスしてくださっていることになる。わたしとしては、とてもありがたいことだ。
▼11月25日 15:40現在

 貝化石が産出する落合地域……、というか江戸東京の東京層(後期更新世)の時代から、各種の機械学習技術をベースとしたAIエンジンが普及しつつある21世紀の今日まで、さまざまなテーマや課題について書いてきたけれど、それでもこの地域の概要を“鳥瞰”したことには、まったくならない気がしている。……なぜ、だろうか?
 そろそろ、大量の資料類も手にあまるようになってきた。紙の資料類だけでも資料ボックスに13箱、参照した書籍は、図書館や資料館で閲覧したものをすべて除外するとしても、記事のテーマに絡んだ700冊を超える書籍が手もとにあふれている。そのほか、インタビューの録音データやメモ類を記したノートなど、そろそろ整理をしないと、わたしの部屋からあふれそうな気配だ。ひとつの記事を書くのに、現場を訪れて調査・取材するのはもちろん、参照するデータや文献はコピーした紙資料にして数枚で済むこともあれば、10冊以上の本を参照して資料が数十枚にわたることもある。
 こんなことを繰り返していれば、当然、資料の山に埋もれるわけで、本格的な画像&テキストデータベースでも構築しない限り、すべてのデータをすぐに参照できる環境を維持できなくなる。でも、仕事をしながら深夜や休日に調査し記事を書くのが精いっぱいの現状では、すべての資料を分類して整理し、ヒモづけしながら本格的なDBを構築するなど、夢のまた夢物語だ。そんな環境で困るのが、資料の出どころを訊ねられることだろうか。



 できるだけ、資料の出典は書くようにはしているけれど、研究論文ではないので文章の末尾が「出典」あるいは「参考文献」だらけになるのは避けたい。たまに見かけるけれど、本文よりも注釈や参考文献のボリュームのほうが多いんじゃないかと思う研究論文がある。あれほど取っつきにくくて、読みにくい(読みたくない)文章はないと思う。どこか、机上で編集した“お勉強発表会”のような気配がして、“現場”のフィールドワークを重視したいわたしは、そして誰にでも理解できる文章で書きたいわたしとしては、できるだけ避けたい形式であり表現なのだ。
 だから、掲載の写真やテーマの支柱となる資料については本文、または末尾でできるだけ出典に触れるようにはしているが、その他の細かいことについては、落合地域の方々が周知のこととして、あるいはもう少し広く江戸東京を地元とする方々には既知のこととして、さらには「自分で主体的に調べてください」wとして省略するか、あるいはブログ内の関連記事にリンクを張って避けることになる。
 たまに、10年近く前に書いた記事の参考文献を訊ねられることがある。おそらく訊ねられた方は、リアルタイムでネット上に掲載され参照できる文章なので、執筆者に訊けばすぐにわかると判断されているのだろう。So-netのタイムスタンプ(記事の末尾に小さく表示されている)はわかりにくく、その記事が2005年とか2007年に書かれたものであることに気づかれないこともある。……さ~て、困った。
 その資料の記憶は鮮明にあるのだけれど、13箱(現在は14箱目に収納しているのだが)のどこかに、図書館でコピーした資料が埋もれているのか、あるいは資料館でメモした紙がいずれかの書籍に挟まっているものか、どこか博物館か資料館の紀要に記述があったものを記憶しているのか、仕事をお休みしてこと細かに調べるわけにはいかないのだ。



 むろん、画像データベース化している資料はすぐに見つかるのだが、コピーや撮影が禁止の図書館や資料館、ある種の本に限りコピー・撮影ができない資料もゴマンと存在している。だから、ノートにメモ書きをせざるをえなくなるが、そのメモをいちいち画像データ化などしてない。(いまだ閉架閲覧室へは、PCやカメラの持ちこみ禁止のところが多い) データの入力や整理・収納、つまりデジタルライブラリーづくりに時間をとられ、かんじんの記事を作成している余裕がなくなってしまうからだ。そうなると、大学の研究者でも博物館の学芸員でもないわたしは“本末転倒”となり、仕事そっちのけでいったいなにをやっているのか、わけがわからなくなってしまう。
 そんな資料の山に埋もれながら、この地域についていくら書いても書き足りない気がするのは、おそらく表現のしかた、方法論ではないかと考えている。わたしの文章の基盤にあるのは、ある「出来事」や「事件」の展開とその結果ではなく、そこで暮らして生活をしていた「人」だ。歴史本や教科書、ときに報道記事などを記述するには、事実経過とその顛末を書くだけでこと足りるのだろうが、その時代のとある地点で生きていた人の“想い”まではすくい取れない。換言すれば、そこに登場する人々の想いや、広義の思想的な背景、生活観、社会観といったものが、わたしには非常に気になるのだ。
 だから、とある出来事や事蹟について書くということは、限りなく登場人物の“個”に寄り添い、その現場にいた人々の想いにフォーカスしていくことになり、時代や社会全体の状況へと敷衍化した鳥瞰的な眺めや、一般化された大状況的な記述から、結果的にどんどん遠ざかることになる。ましてや、4,000文字前後にまとめて、「1話完結」型で描くには、あまりにも荷が勝ちすぎるということだろう。



 さまざまな人々の軌跡を追いかけ、彼らの“想い”を逐一あぶり出しながら、とある時代の状況を全的に象徴化させるのは、個としての「人」を追いかけるドキュメントではつくづくむずかしいと感じる。おそらく、その時代を代表する思想が都合よく数人の人物によって語られ、その時代を抽象化したような出来事や事件が起こり(それを人々が共有し)、物語の展開に有利な主人公または狂言まわし役が跳梁する、フィクションとしての「全体小説」的な手法をとらない限り、この地域のある時代を描いた(切り取ってプレパラート化した)、ないしは歴史を“鳥瞰”したというような感慨や充足感は、いつまでたっても得られないのかもしれない。
 でも、ある時代の「国民」とか「市民」、「町民」、「~階級」、あるいは「日本人」や「東京都民」、「新宿区民」、「淀橋区民」、「落合町民」などと、非常に大雑把かつ漠然とした“くくり”、人々の存在を易々と集約化し表現したコトバを主体Click!にした文章を書きたくないわたしとしては、このサイトの文章を1万本書いたとしても、落合地域とその周辺域、ひいては江戸東京の(城)下町Click!の事績を象徴的に描ききったとはまったく思えず、決して充足感は得られないような気がする。
 なぜなら、たとえ同一の地域や環境で生活し、同じ思想を共有している(と思いこんでいる)人々であろうと、その暮らしや生活観、社会観、ひいては感性的な認識にいたるまで、まったく同一のものとはなりえず、個々別々のはずだからだ。それを「同一」だと幻想・錯覚するところに、国家や組織、ときに誰かにとってまことに都合のよい記録や、恣意的な総括や、事実を歪曲した歴史が、無理やり形成されていくように思うからだ。



 なんだか、グチとも弁解ともつかない文章になってしまったけれど、12年間もここの文章アップに縛られていると、どこか遠くへも行けないし、惹かれるテーマをじっくり掘り下げられないのも確かだし、データの使用領域がMAXを迎えそうだし(So-net会員なら5GBまで使えるのかな?)……ということで、再び気まぐれでナマケモノらしい好きなことし放題の生活にもどろうかと、あれこれ思案中のこのごろである。
 記事中の引用文は別にして、この12年間でほとんど初めて「である。」表現で文章を終えてみた。そう、この文末が「である。」で終わる、明治期の文語体を引きずる木で鼻をくくったような高踏・高級を装う論文調の文章が、わたしは大キライなの「である」。

◆写真:この12年間で、下落合(現・中落合/中井含む)地域から消えた風景いろいろ。