白戸三平の『忍者武芸帖』や『カムイ伝』は知っていても、中村武志の「目白三平」シリーズを知っている人は少ないだろう。わたしも古書店や「落合新聞」で彼の文章を読むまでは、まったく知らなかった。「目白三平」シリーズは、下落合1丁目527番地(現・下落合3丁目)に住んだ中村武志が書いた、国鉄に勤務する公務員(サラリーマン)を主人公とする一連の小説だ。「目白三平」は架空の人物だが、国鉄に勤めるサラリーマンという設定が中村武志のリアルな生活とまったく同じなので、読者は作品を私小説的に解釈したのだろう、彼のペンネームのように捉えられてしまったらしい。
 また、1955年(昭和30)に制作された映画『サラリーマン目白三平』(東映)などと、1960年(昭和35)の映画『サラリーマン目白三平・亭主のため息の巻』(東宝)などが次々と上映されて、よけいに中村武志=目白三平のように思われてしまったようだ。“サラリーマン小説”というと、戦後は源氏鶏太が有名だけれど、戦前は1926年(大正15)に目白文化村Click!を舞台にしたとみられる、『文化村の喜劇』Click!を残した佐々木邦Click!が挙げられるだろうか。もっとも、わたしは源氏鶏太の作品をほとんど読んだことがない。
 中村武志が住んでいた下落合1丁目527番地は、目白通りの北側に張り出した下落合エリアの一画であり、目白聖公会Click!の東隣りにあたる敷地だ。北側の道路から、南へ入る路地の突き当たり右手が中村邸だった。彼がいつごろから下落合に住んでいたのかは不明だが、1963年(昭和38)に住宅協会が発行した「東京都全住宅案内帳」には、同地番に「中村」宅を見つけることができる。少なくとも国鉄へ勤務しはじめた、1926年(大正15)以前の学生時代から東京にいたと思われ、昭和初期には内田百閒Click!に師事したことでも知られている。ちなみに百閒の死後は、彼が著作権管理者を務めていた。
 1963年(昭和38)1月27日発行の「落合新聞」Click!に、中村武志の随筆『架空の人物』が掲載されている。近くの店へ、自宅から電話で商品を注文し「中村ですが…」と名乗っても、なかなかどこの「中村」だか理解されない場面が登場する。店の主人が、店員に「中村」邸の場所を確認している場面だ。以下、『架空の人物』から引用してみよう。
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 (前略)ご主人が大声でそこにいる店の人にたずねているのが、受話器を通して聞えて来た。/「K病院の近くの中村さんなら目白三平さんですよ。よく知ってます」店の人の返事もかすかに聞えた。/「なんだ、そうか。目白三平さんなのか。それならそうとはじめから目白さんだと名乗ってくれればよかったんだ」/ご主人はそう呟いてから、「はい、分りました。目白三平さんですね。すぐお届けいたします」と言った。/“いや、ご主人よ。私は目白三平ではありませんよ。目白三平は、私のささやかな文章の中に登場する架空の人物ですからね。架空の人物が、かりそめにも、お宅から物を買うわけにはいきませんからね”と呟いた。
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 どうやら、中村武志名で書いた小説に登場する主人公の名前が、いつの間にかペンネームのように浸透してしまっていたらしい。下落合の最寄り駅のひとつが山手線・目白駅Click!だし、目白の町名に目白通りと周囲に「目白」が多いので、よけいに憶えやすかったのだろうか。中村武志自身も、毎日通勤で利用している国鉄の最寄りの駅名から、主人公の名前を考案しているのだろう。
 中村武志は、夜の帰宅途中で立ち小便をするのが好きだったらしい。ちょっと困った趣味だが、それを近所の人に目撃されている。以下、つづけて引用してみよう。
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 家の近くの両側が板塀になっている暗い横町で、私は時々立小便をする。なんとも恥かしい次第だが、その晩も例によってそれをしていたら、後を通った二人連れの一人が、/「あすこで立小便をしているのが目白三平だよ」/と、相手にささやいているのが耳にはいった。/“これはいかん。今後はもううかつに立小便もできないぞ”と、私は自戒した。
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 「架空の人物」が立ち小便をしているのだから、「私が、つまり中村武志がしているのを目撃されたわけじゃないんだからな……」と、あっさり開き直ればいいと思うのだが、そこまでは自身と小説の主人公とを割り切れなかったようだ。
 近くの中華そば屋へ入っても、「目白三平」がつきまとうことになる。注文したメニューにまで、あれこれ周囲が“批評”するのを耳にしている。ちなみに、書かれている「支那ソバ屋」とは、このエッセイと同年に作成された「東京都全住宅案内帳」(住宅協会)に採取されている、目白聖公会から3軒西隣りにある「中華ソバ丸長」のことだろう。ラーメン店「丸長」は、現在も当時と変わらずに営業をつづけている。
 

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 (前略)私は近所の支那ソバ屋で、四十円のラーメンを食べていた。隣りのテーブルには、三人連れの青年がいた。そこへは五目ソバが運ばれて来た。彼らは、私のほうをちらっと見てから、ひそひそ話しだした。聞くとも、聞いていると、/「目白三平は、ただのラーメンじゃないか。五目ソバくらい食べてもよさそうだね」/「いや、彼はとてもケチなんだそうだ。いつでも四十円のラーメンにきまっているんだ」/「そうか。そいつは知らなかったね。そんな男なのかね。長い間しがないサラリーマンをやっていると、段々ケチになって、少しくらい金がはいっても、なかなか使えないのだろうね」と、それぞれ三人が言った。/私は急いでラーメンを食べ終ると、慌ててそこを出た。そして、/“三人の青年諸君よ。諸君の言う通り、私はケチな男ですが、ラーメンとは無関係ですよ。とにかく、私はただのラーメンが好きなんですからね。チャシューやいろいろなものが載っているのは、もともと嫌いなんです。/立小便まで自由にさせて貰いたいなどとは申しませんが、せめてラーメンくらいはゆっくり食べさせて下さいよ。私は誰にも目をつけられずに、ひっそりと暮らしたいのです。それに、私は目白三平じゃないのです。国鉄職員の中村君と、架空の人物とを混同しないでください。(後略)”
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 そもそも小説の主人公を考案する際、自分とまったく同じ日本国有鉄道の職員にしてしまったのが、後年までずっと悩まされることになった、大まちがいのもとだろう。せめて国鉄ではなく、民間の西武や小田急、京王ぐらいにしておけば、少しは読者の受けとめ方も変わっていたかもしれない。
 公務員と文筆業の二足のわらじをはく中村武志に、周囲の人々がみんな好意的な眼差しを向けていた……とは、いま以上に考えにくい時代だ。いつの時代でも、公務員に対する風当たりは強いが、サラリーマンとは表現しつつも運輸省から給料をもらっていた中村武志と、映画化もされた「目白三平」シリーズで得る副収入とを考え合わせると、周囲の人々があえて本名ではなく「目白三平」と呼んで半ば揶揄していたのではないか……と、ややうがった見方もしたくなる。自宅のまわりで、近所の人たちからやたら注目されているような気配にも、そのような厳しい眼差しを感じてしまうのだ。

 最近、わたしは「落合さん」と呼ばれてビックリすることがある。「落合道人」Click!(おちあいどうじん)はサイト名であって、わたしの名前ではない。メールでも「落合様」などと書かれたものがとどくと、いちいち「ちがうんです」と訂正している。中村武志が近くの駅名をとって小説の主人公を「目白」としたように、「落合」は落合地域のことであり「道人」は散歩をする人間という意味だ。「“おちあいみちと”さんはケチだから、コーヒー1杯で2時間はねばりやがんだぜ」……などと、近所の人たちからいわれないよう気をつけたい。いわんや、立ち小便などもってのほかだ。

◆写真上:中村武志邸が建っていた、下落合1丁目527番地界隈の現状。目白聖公会の北東側には新たな住宅が密に建てられ、中村邸へと入る路地自体が消滅している。
◆写真中上:上は、1937年(昭和12)の「火保図」にみる下落合1丁目527番地界隈。この一帯は空襲からも焼け残り、戦後もそのままの家並みが残っていた。1963年(昭和38)の「東京都全住宅案内帳」(中)と、同年の空中写真(下)にみる中村武志邸。
◆写真中下:上左は、1957年(昭和32)に出版された中村武志『目白三平の共稼ぎ』(新潮社)。上右は、1970年(昭和45)出版の同『目白三平 実益パリ案内』(千趣会)。同書の表紙には中村武志の名前がなく、「目白三平」が著者名のようになっている。下は、1960年(昭和35)制作の映画『サラリーマン目白三平・女房の顔の巻』(東宝)。
◆写真下:「落合新聞」1963年(昭和38)1月27日号に掲載の中村武志『架空の人物』。