植物学者の大賀一郎Click!は、1917年(大正6)から南満州鉄道(株)の教育研究所員として大連に勤務している。大連での6年間にわたる勤務を通じて、フランテン泥炭地から古いハスの実を採集して研究に没頭した。1923年(大正13)には、採集したハスの種子1,000個を携えて、米国ボルチモアにあるジョンスホプキンス大学へ留学している。
 1926年(大正15)に米国留学からもどると、奉天教育専門学校の教授に就任して、次々とハスClick!に関する論文を発表している。そして、1931年(昭和6)に「満州事変」が勃発すると、落ち着いた研究ができないために15年ぶりに帰国した。この間、ハスをはじめ歌子夫人とともに「満州」に分布する植物に関する研究を深めていったが、なぜか昆虫のフンコロガシ(糞虫=スカラベ)に興味をおぼえたらしく、植物研究と並行してフンコロガシの研究もつづけている。
 大賀一郎は当初、中国北部に見られるスカラベに「バフンコロガシ」と名づけている。だが、実際に調べてみると「バフンコロガシ」が転がしている糞玉は、牛糞に羊糞、人糞が多く馬糞はかなり少ないことが判明した。もっとも多かったのは、牛糞を転がすケースだったようだ。だから、「馬」を取って「フンコロガシ」に改めたほうがいいと、常に感じていたらしい。
 フンコロガシは、日本のような湿度の高い地域には少なく、乾燥した中国やモンゴル、トルコ、地中海沿岸、エジプトなどに見られる昆虫だ。有名な『ファーブル昆虫記』には、フランスのフンコロガシが登場するけれど、大賀一郎は「満州」のそれは習性がかなり異なっているとしている。中国のフンコロガシについて、1929年(昭和4)に発行された「アミーバ」(生き物趣味の会)所収の、大賀一郎『満州の珍「ふんころがし」』から引用してみよう。
  
 ファーブル氏の研究は、主としてスカラベサクレであるが、満州にいるのはそれではない。習性に少し異なる所がある。ふつうに見られるものに二種ある。二匹で昼間糞玉を転がす形の小さな種類と、一匹で主に夜間糞玉を転がす形の大きいものとである。この二種は習性がよほど違う。二匹で玉を転がす小さな方はGymnopleus sinnatus Fab.であるらしい。一匹で玉を転がす大きな方はファーブル氏の研究されたのと同属スカラベ(Scarabeus)で種名はわからない。学名の考察は専門家にゆずるとして、いま前者を「ふんころがし」、後者を「おおふんころがし」としておく。
  
 中国には、古くからフンコロガシを意味する名詞がたくさん存在しており、大賀一郎は古い中国の文献に当たりながら、そのいくつかを書きとめている。すなわち、「蜣蝍(きょうしょく)」「羌蝍(きょうしょく)」「胡蜣蝍(こきょうしょく)」「蛣蜣(きつきょう)」「天社」「弄丸(ろうがん)」「転丸」「転丸子」「推丸」「黒牛児」「鉄甲将軍」「夜遊将軍」「推車客」「蜣蝍将軍(きょうしょくしょうぐん)」……などなどだ。また、フンコロガシが当時の漢方薬にも用いられていたことを記録している。


 フンコロガシは、メスが後ろ足で糞玉を転がしていくのだが、オスはそれを手伝うために前にまわって糞玉を引いていく。ところが、おかしなことに糞玉を転がしているメスは、引いているオスがライバルのオスにどこかへ蹴とばされ、“別人”に変わっていてもいっこうに気にしない。同様に、糞玉を一所懸命に引いているオスは、押しているメスが他の横着でずるいメスに横取りされ、“別人”にすり替わっていても「あれっ?」などとは思わず、ぜんぜん気にしない。さらに、メスは糞玉を必ず後ろ足で転がすが、オスはそのような動作はまったくしない。だから、フンコロガシと聞いて通常イメージする姿は、すべてメスの習性ということになる。
 大正期に「満州」で流行った唱歌に、「ばふんころがし」という歌がある。『満州唱歌集』にも収録された歌らしいが、同『満州の珍「ふんころがし」』より引用してみよう。
  
  ばふんころがし
    
 やっこら やっこら やっこら やっこら
  ばふんのいのちだ お前の地球だ
  その手をかわして その足ひいたり
  上見た 下見た まだ日は長いぞ
 やっこら やっこら やっこら やっこら
    
 やっこら やっこら やっこら やっこら
  ばふんのいのちだ お前の地球だ
  その手をはずすな その足ふんばれ
  上見た 下見た もう日は暮れるぞ
 やっこら やっこら やっこら やっこら
  


 フンコロガシが、「天体」あるいは「星」を転がしているイメージというのは、別にこの歌の作者が想像しただけでなく、古代エジプトの遠い宇宙観にまでさかのぼることができる。古代エジプトでは、スカラベ(タマオシコガネ)は太陽神の象徴であり、糞玉=太陽を転がして日の出から日の入りをつかさどっているとイメージされていた。もちろん、当時は地球が回転しているのではなく、太陽が地球の周囲を半日かけて、コロコロと回転しながら移動していると考えられたからだ。
 フンコロガシが太陽ではなく、地球を転がしているという絵本がどこかにあるそうだが、わたしはまだ見たことがない。巨大なフンコロガシが、地球を転がすのに飽きて眠ってしまい、世界は昼の国と夜の国だけになってしまう。そこで、ふたりの子どもがフンコロガシを起こしに冒険の旅へ出かける……というストーリーらしい。
 絵本では知らないが、映画では観たことがある。2005年に制作された、手島領監督の『NEW HORIZON』(Jam Films S)だ。この虫のネームを聞いただけで、名前の面白さからつい笑ってしまうのだけれど、横浜を舞台に日本人と米国人、中国人が織りなす夜の世界だけになってしまった物語が、フンコロガシから「健康」「平和」「愛」の3文字へと収斂する同作には、思わず爆笑してしまった。地球を回転させるのがフンコロガシだからこそ、あまりにもバカバカしくて笑えるのであり、「病気」「戦争」「憎悪」を対極へと押しやる強烈なユーモアが反響して感じられるのだろう。
 

 大賀一郎は、本来は植物が専門の博士のはずだが、専門外のフンコロガシに惹きつけられたのは、やはりそのユーモラスな動作であり習性からではないだろうか。フンコロガシを集めて飼っていたかどうかは知らないが、地中からハスの種子を1,000個集めるぐらいだから、きっとフンコロガシもたくさん集めて飼育していたのかもしれない。

◆写真上:帰国する前、1929年(昭和4)ごろに「満州」で撮られた大賀一郎・歌子夫妻。
◆写真中上は、南満州鉄道(株)の本社があった大連の市街地。は、和名が糞虫のタマオシコガネ(スカラベ)=フンコロガシ。(Wikipediaより)
◆写真中下は、フンコロガシを太陽神に見立ててイメージした古代エジプトのアクセサリー。は、小学生たちにハスについて解説をする晩年の大賀一郎。
◆写真下上左は、『NEW HORIZON』が収録されたDVD『Jam Films S』(セガ)のジャケット。上右は、手島領監督『NEW HORIZON』に登場する絵本のフンコロガシ。は、フンコロガシの絵本を子どもに読んで聞かせる同作のワンシーン。

おまけ:本格的な夏を迎え、下落合の動物たちの動きが活発化している。カブトムシの♀の次は、コクワガタの♀がやってきた。玄関先では、オオカマキリの子どもたちが大量に生まれ、部屋に侵入した大きなハナアブに追いかけられ、虫が苦手な娘はパニックになっている。家の前の路上では、どこからやってきたのかカルガモの親子が路側帯を散歩し、クルマや野良ネコが危険なので警官たちが出動して保護し下落合の湧水池へ無事に放した。20~30年前の新宿では、考えられない情景だ。