相変わらず江戸期の資料を漁っているが、「中井」の呼称について書かれたものに、もうひとつ『新編武蔵風土記稿』がある。大田南畝Click!によって1788年(天明8)に増補版が執筆・編集されている『高田雲雀』Click!に次ぐ資料だろうか。ただし、『新編武蔵風土記稿』は文化・文政期(1804~1829年)にかけ、昌平坂学問所地理局によって編纂された266巻におよぶ地誌本だが、将軍に献上された原本は失われて存在しない。
 国立公文書館にあるのは、後世のものとみられる写本と1884年(明治17)に内務省地理局が編集した活字本の2種類だ。そして現在、図書館や史料室などで参照できる『新編武蔵風土記稿』は、基本的に明治に入ってから編集された活版印刷の資料が底本となっている。だから、その内容がどこまで本来の正確性を保っているか、明治政府の手によってどのような改変・編集が加えられてしまったのかが不明だ。このような前提を踏まえつつ、『新編武蔵風土記稿』に記載された「中井」について、江戸期から明治期にかけての落合地域の行政状況も踏まえつつ、及ばずながら考察してみたい。
 『新編武蔵風土記稿』の上落合村と下落合村についての記述は、おしなべて上落合村のほうがボリュームが多い。同書が記録された時点では、上落合村にあった家屋が52戸に対して下落合村が67戸と戸数が多く、また上落合村が東西10町南北6町に対し下落合村が東西20町南北5町余と、上落合村に対して下落合村のほうが倍の面積があるにもかかわらず、上落合村のほうを優先するような書き方をしている。おそらく、同じ御料地(天領)同士でも生産量に大きな差があった、すなわち「あまるべの里」Click!とも呼ばれた上落合村のほうが、幕府に収める年貢が下落合村よりも多かったからだと思われる。
 当時の下落合村は、村域が広いにもかかわらず開墾の手の入れられない将軍家の広大な鷹狩り場=御留山Click!を抱えており、また崖線沿いに濃い森林が随所に繁っていて、開拓して田畑を耕作できるエリアがかなり限定されていただろう。また、丘上や斜面の土地が多いので畑地は拓けても、水利の面から田圃を増やすのは容易でなかったにちがいない。したがって、村の身上(台所)は上落合村のほうが豊かであり、また幕府に収める年貢高も勝っていたのではないかとみられる。ちなみに、下落合村の村域にある御留山を管理していたのが、大田南畝『高田雲雀』の記録によれば上落合村であったことからも、両村における豊かさのちがいや力関係の差が垣間見える。
 では、『新編武蔵風土記稿』から上落合村について見てみよう。ちなみに出典は、これまで多く資料や文献に引用されている、1957年(昭和32)に雄山閣から出版された蘆田伊人・編「大日本地誌体系」シリーズの『新編武蔵風土記稿』第1巻からとする。
  
 〇上落合村
 上落合村は日本橋より二里余の行程なり、村名は神田上水の溝渠と井草川と当初にて落合と故かく名付と云、【小田原役帳】に、興津加賀守知行二十貫五百七十文江戸落合、及太田新六郎知行内寄子衆配当十貫五百文江戸落合鈴木分長野彌六郎分とあり、是も拠は上水闢けさる前既に井ノ頭より流出せる川ありしとみゆ、上下二村に分れしも古き事にて、正保改には既に上下落合二村とす、家数五十二、四境東は上戸塚村西は多摩郡上高田村、南も同郡中野村北は下落合村、東西十町南北六町、用水は井草川より引用ゆ、古より御料所なり、検地は寛文十年野村彦太夫、享保十八年筧播磨守糺せり、村内に秩父道中田無村への往還かゝる道幅三間余、又中程に古の奥州道あり、(以下略)
  

 
 この記述によっても、江戸初期から拓けていた幕府直轄地であり、ゆえに村の内証(財政)は幕府が着目するほど豊かだったことを想起させる。神田上水と井草川(現・妙正寺川)が流れ、水はけのよい土地がらから穀物が豊かにみのる「あまるべ」郷だったのだろう。次に、下落合村の記述を小名「中井」の項目も含めて、同書より引用してみよう。
  
 〇下落合村
 下落合村は日本橋より行程二里、家数六十七、四境東は下高田村西は多摩郡上高田村南は上落合上戸塚の二村北は長崎村なり、東西二十町南北五町余、正保年中は御料の外太田新左衛門采地なり、後御料の地を小石川祥雲寺領に賜ひ、今新左衛門が子孫太田内蔵五郎が知行及祥雲寺領交れり、用水は前村に同じ、(中略)
 小名 七曲(左右松林の山にて少しの坂あり、屈曲せし所数廻なればかく唱ふ) 中井
  
 下落合村は、あっさりとした記述で終わっているが、耕作地が少なく石高(収穫高)も低かったために、過去に采地(領地)となる事蹟も少なかったのだろう。
 さて、下落合村の項目の中に小名として「中井」の名称が登場している。大田南畝が採取した「中井村」とは呼ばれず、村の付かない小名「中井」として記録されている。『新編武蔵風土記稿』の編者は、大田南畝の『高田雲雀』を参照していた可能性があり、大田が「中井村」を「落合上下の間を云」、すなわち妙正寺川が流れる低地あたりと規定しているのを前提にしてか、あるいは場所が判然とせずに不明のまま採録したのか、特に「中井」に関しては場所の特定を行っていない。
 先に記したように、上落合村のほうが財政的にも豊かで行政的にも力が強い時代は、江戸期が終わり明治期に入っても、しばらくは変わらなかっただろう。それを示唆する記録が、地図や郵政による住所ふりの地名(字名)として残されている。地名の成立について詳しい方なら、地名がどこを中心点として、あるいはどのエリアを優先して名づけられているのかがわかれば、その地域一帯の村や町など行政機関の力関係が透けて見える……というのは周知のことだろう。上落合村と下落合村の関係にも、それが透けて見えるのだ。


 『新編武蔵風土記稿』では「井草川」と書かれている妙正寺川は、江戸期が終わり明治期に入っても地元では「北川」Click!と呼称されていた。下落合の南端を流れる妙正寺川を「北川」と表現するのは、下落合村からの呼称ではなく明らかに上落合側からの呼び名だ。また、明治以降に作成された地図には、妙正寺川の北岸一帯は「北川向」という字名が記載されている。現在の、中井駅前から中ノ道(現・中井通り)につづく一帯、すなわち下落合エリアの字名だ。これもまた、北川の向こう側と表現するのは、上落合側からの視点にちがいない。「北川向」は政府の郵政事業にも導入され、住所表記では昭和初期まで活きていた字名だった。
 ところが、大正期に入ると落合村(1924年より落合町)では上落合と下落合の立場が逆転Click!する。上落合が、いまだ明治期からつづく農村が多かったのに対し、下落合では目白文化村Click!近衛町Click!をはじめとする郊外文化住宅街の建設や、川沿いへの工場誘致Click!西武鉄道Click!の誘致などが本格化し、村の財政が下落合側を主軸として大きく潤うことになった。そのころから、おそらく妙正寺川沿いにふられた「北川向」など、旧・上落合村からの視点に由来する字名や名称などが気になりだしたのだろう。
 大正末から昭和初期にかけ、旧・下落合村に住む地元の有力者たち(特に明治末から1927年まで村長をつとめた人物のヘゲモニーが大きいと思う)は、江戸期の文献をひっくり返しながら、「北川向」に代わる小字名を探したか、村の古老たちに聞きとり調査をしてまわったかもしれない。また、近々設置される予定の鉄道駅が妙正寺川沿いの「北川向」あたりにできることも、どこか頭のすみに入れていただろうか? こうして、大田南畝の『高田雲雀』の記述に「中井村」(幕府の行政区画ではなく狭いエリアの通称であることは前回の記事にも書いた)を、『新編武蔵風土記稿』には「中井」を発見して、根拠は「これだ!」とニヤリとしたにちがいない。
 あらかじめ駅名への命名に関する“実績”づくりのためか、下落合の昔ながらの字名である「大上」(目白崖線で最高点の標高37.5m)を、一時的に低地の地名である「中井」に変更したものの、昭和初期には急いでもとの「大上」へともどし、敷設された西武線の駅名に改めて「中井」と付けるよう西武鉄道に働きかけた。これで、上落合側を視座とする「北川向」という呼称は、遠からず消滅するだろうと喜んだかもしれない。


 でも、下落合の有力者たちが考えた妙案は、あくまでも「下落合の北川向」を消滅させるための「下落合の中井」だったろう。まさか、1967年(昭和42)の町名変更Click!で、旧村名であり大字だった肝心の下落合という地域名が多くのエリアから消滅し、駅名に引きずられて旧・下落合4~5丁目の斜面から丘上、平地にかけてまでが、とうに忘れられていた小名「中井」に取って代わられてしまうとは、およそ思ってもみなかったにちがいない。江戸時代の一時期に呼ばれていたらしい、川沿いの「中井(村)」の経緯を知る古老たちにしてみれば、「子が親を食っちまった」ように感じていたのではないだろうか。

◆写真上:大正橋から見た妙正寺川(北川)で、右岸の下落合が字「北川向」にあたる。
◆写真中上は、1884年(明治17)に活字印刷された内務省地理局版『新編武蔵風土記稿』巻の十二にみる「中井」表記。下左は、国立公文書館内閣文庫が収蔵している同書の表紙。下右は、1957年(昭和32)に雄山閣から出版された「大日本地誌体系(一)」の1冊で、引用などでもっともポピュラーな『新編武蔵風土記稿』第1巻。
◆写真中下は、1911年(明治44)に作成された逓信省の「落合村全図」にみる下落合の字「北川向」。は、1929年(昭和4)に作成された「落合町全図」。
◆写真下は、中井駅へと通じる西武線の線路で、両側一帯が字「北川向」と呼ばれていた。は、下落合ではもっとも標高が高い大上にある目白大学。大正の後半から末にかけての一時期、なぜか昔ながらの字名「大上」が「中井」にされていた。