このサイトの記事では、清水多嘉示Click!の名前はすでに登場している。それは中村彝Click!がらみテーマではなく、佐伯祐三Click!がテーマの彫刻家・陽咸二Click!をめぐる物語Click!の一部においてだった。二度めの帯仏中、ヴィル・エヴラール精神病院で死去した佐伯祐三のデスマスクClick!をとろうとする際、日名子実三とともに清水多嘉示が制作依頼者の名前として挙がっている。
 デスマスクの制作は、清水多嘉示と同じアパートに住んでいた佐伯米子Click!から依頼されたものだが、ほぼ同時に山田新一Click!も佐伯のデスマスク制作を日名子実三へと依頼している。だが、ついに佐伯のデスマスクは制作されずじまいだった。このエピソードから、清水多嘉示はパリで佐伯祐三の周辺にいた彫刻家のイメージが生じ、後年の仕事も彫刻がメインだった関係から、中村彝との深い関係を見落としていたのだ。清水多嘉示は、1917年(大正6)に岡田三郎助Click!藤島武二Click!が設立した本郷洋画研究所で学ぶかたわら、中村彝に師事して下落合のアトリエを頻繁に訪れている。
 最初に下落合の彝アトリエを訪れたのは、1917年(大正6)6月23日(土)だった。東京気象台によれば3日も降りつづく梅雨の中、ようやく小降りになった泥道を歩きながら訪問するのはたいへんだったろうが、それほど清水多嘉示は彝に会いたかったらしい。下落合464番地の林泉園Click!の丘上に彝アトリエが完成してから、ほぼ1年後のことだ。だが、このとき中村彝は外出中で不在だったため、会えずにそのまま帰っている。当時、毎日あるいは隔日で通っていた、歯医者に出かけて留守だったのかもしれない。この時期の清水多嘉示は、彫刻家ではなく洋画家をめざしていた。彝アトリエを訪ねるきっかけとなったのは、前年1916年(大正5)の秋に開かれた第10回文展で展示されていた、彝の『田中館博士の肖像』Click!を観て感動したからだった。
 つづいて、同年6月28日(木)に再び彝アトリエを訪ね、ようやく彝に出会えている。この日も、午後から雨が降る梅雨らしい不安定な天気だった。それ以降、1923年(大正12)3月に日本郵船の諏訪丸でフランスに渡るまで、清水多嘉示は頻繁に彝アトリエを訪問していた。清水は中村彝を訪ねるたびに、自身が描いた静物画や肖像画、風景画などを見せ講評を仰いでいる。また、ときにはカリンの果実や缶詰をお土産に持参していたようだ。昔から、カリンは身体の免疫力を高める果物として知られており、彝が罹患している結核の病状を気づかってのことだろう。
 清水多嘉示が登場する中村彝の書簡を、1926年(大正15)に岩波書店から出版された『芸術の無限感』から、いくつか引用してみよう。
  
 (大正九年)八月丗日 下落合四六四/越後柏崎四ツ谷 洲崎義郎様
 来月一日から愈、院展二科が始まります。院展の「ルノアール」は大さ十二号と八号位の商品ださうですが、それは実に素敵なものだ相です。今年は友人連が余り出品しないので物足らないが、それでも院展へ耳野(卯三郎)君、二科へ清水(多嘉示)と瀬澤とが通りました。
 (大正十年)十一月十五日 下落合四六四/長野県諏訪郡平野村新屋敷 黒澤久乃様
 その後いゝ絵が御出来になりましたか。清水(多嘉示)君は勉強して居られますか。
 (大正十一年)九月十日(?) 下落合四六四/越後柏崎四ツ谷 洲崎義郎様
 自分の病にのみかまけて大へん御無沙汰をしました。その後御変りありませんか。鶴田(吾郎)君や、曾宮(一念)君や、(鈴木)金平君の兄さん達が上つて大分賑かだつた相ですね。御上京は何時頃になりますか。上野の二科には曾宮君が一枚と清水(多嘉示)君が一枚出して居ます。(カッコ内引用者註)
  
 清水多嘉示の作品が二科展に初めて通ったのは、1919年(大正8)の第6回二科展に出品した『風景』と『カルタ』の2作品だった。


 
 ときに、清水多嘉示は彝アトリエへ長時間とどまり、周辺の風景をスケッチしていた様子をお嬢様である青山様からうかがっている。青山様によれば、「崖地が描かれている画面」もあるということなので、おそらく彝アトリエ前の桜並木の下、林泉園(明治期には近衛家Click!落合遊園地Click!)の谷戸が描かれているのではないかと思われる。
 大正中期における下落合(現・中落合/中井含む)の東部といえば、東京が関東大震災Click!にみまわれる前の風情で、明治期からの別荘地だった雰囲気が色濃く残る光景だったろう。華族やおカネ持ちの大きな屋敷が、森の間に距離をおいて見え隠れするように建ち並んでいただろうが、目白文化村Click!近衛町Click!の開発計画はいまだ手つかずの時期だ。青山様のお話では、彝アトリエを訪れていた時期に描いたとみられる風景画が何点か残っているそうなので、もし機会があればこちらでもご紹介したいと考えている。
 さて、清水多嘉示は本郷洋画研究所の指導がつまらなかったらしく、故郷である長野県諏訪にもどり東京へ勉強に出る以前は、岡谷尋常小学校代用教員の図工教員になっている。1918年(大正7)のことで、清水多嘉示が20歳のときだ。その後、1919年秋には諏訪高女の美術教師になってからも清水は機会があれば彝アトリエを訪問しつづけ、1919年(大正8)の夏には彝が転地療養Click!している茨城県の平磯海岸まで出かけている。このときも、数多くの自作を携えて広瀬家の別荘を訪問し、そのまま彝とともに別荘へ泊まっている。
 ここで留意したいのは、中村彝が文展(帝展)や二科の画家を問わず、同等に接している点だろうか。現代でさえ、そのようなワク組(というかセクト主義的な垣根)はよく聞かれるけれど、国が主催する文展(帝展)は同展に出品する画家同士が親密に交流し、アンチ・アカデミズムの二科は文展(帝展)を睨みながら在野の画家仲間で交流する……というのがあたりまえの時代だった。ところが、中村彝はこの垣根をまったく意識していないように見える。ただし、二科の画家たちに対しては草土社Click!の仕事と同様に、手紙の文面などで辛辣な言葉を浴びせているが……。
 中村彝のもっとも身近にいた画家のひとり、曾宮一念Click!も文部省の展覧会とは無縁な二科の画家だった。1919年(大正8)8月29日、清水多嘉示のもとには二科入選の祝いのハガキが中村彝からとどいている。もう少し時代が下った、たとえば大正末から昭和初期にかけて活躍した画会の代表的な存在である1930年協会Click!を見れば、帝展や二科などの会派を問わずに画家たちが参集して制作しているが、大正前・中期の段階では中村彝の垣根を意識しないフレキシブルな感覚は、めずらしかったのではないだろうか。
 その後も、清水多嘉示は彝アトリエを訪ねつづけ、中村彝の庭で彝のポートレートを写真撮影をしたり、1920年(大正9)9月1日には彝と連れ立って俥(じんりき)で下落合から上野まで出かけ、二科展と院展を鑑賞している。また、彝は清水多嘉示をよほど気に入っていたものか、1921年(大正10)11月には訪問した彼に、1915年(大正4)制作の『自画像』をプレゼントしている。そして翌1922年(大正11)には、清水多嘉示の主宰により中原悌二郎Click!と中村彝の「作品展」を、故郷である長野県の諏訪高等女学校(現・諏訪二葉高校)講堂(2月5~10日)と、松本女子師範学校(2月11~12日)の2ヶ所で開催した。



 このあと、清水多嘉示はフランス留学を計画し、そのとき勤務していた諏訪高等女学校の美術教師の後任について、中村彝と曾宮一念に相談している。その結果、両人の推薦したのが彝の弟子のひとりである宮芳平Click!だった。ちなみに、中村彝の没後に宮芳平を菅野女学校の美術教師へ推薦したのも曾宮一念Click!だ。こうして、1923年(大正12)3月に清水多嘉示はフランスへ向けて出発していった。
 さて、前出の『芸術の無限感』にはたった1通だけ、フランスの清水多嘉示にあてた彝の手紙が掲載されている。1923年(大正12)の秋に書かれたものだが、1928年(昭和3)まで帰国しない清水多嘉示あての手紙が、なぜ1926年(大正15)に出版された『芸術の無限感』に収録されているのか不思議だが、ひょっとすると同書の編集委員だった鶴田吾郎Click!か曾宮一念が、フランスに手紙を書いて公開してもいい彝の手紙があれば返送してほしいと、清水に依頼しているのかもしれない。
 清水に「タピ」=タペストリーを送るよう依頼する、中村彝の手紙を引用してみよう。
  
 (大正十二年)秋 下落合四六四/仏蘭西 清水多嘉示君
 向ふへ行つてからの君が至極達者であるといふこと、ブルデル氏について傍ら彫刻を学び、着実な勉強をつゞけて此頃は大変いゝ絵をかきつゝあるといふことを、野田(半三)君から聞いて大いに喜んだ。どうか時代の浮薄な風潮に溺れず、芸術の本質的価値に対する慧眼と、深い内観による正しい技巧を獲得して帰つて来て呉れ。(中略) 多分君も今年の二科の画集は見たことだらうと思ふが、あれは全く国辱のやうな気がして仕方がない。(中略) さて別封の為替百円は、これで何か静物や人物画のバック等に用ゆべきタピの類で(中略)ごく安物で、比較的気持ちの悪くないものを古でいゝから仕入れて欲しいのだがどうだらう。馬越(舛太郎)君と相談して散歩のついでにでも目に止つたものをいゝ加減に買つて呉れゝばそれで結構だ。御忙しい処をほんとに御気の毒だが、なるべく早く送つてくれ。それでないと僕の寿命が長くは待ち切れさうもないから……余り吟味せずに、どんなのでもいゝからなるべく早く、ナルベク。(カッコ内引用者註)
  
 とりあえず、二科の清水多嘉示が日本を離れて留学したせいか、二科展の作品群はさっそく「国辱」ものにされてしまったが、彝の死後に第12回二科展(1925年)で『冬日』Click!『荒園』Click!、『晩秋風景』の3作品で樗牛賞を受賞Click!し、中村彝アトリエで記者会見Click!を開いた曾宮一念は、この手紙をどのような想いで見ていただろうか。

 
 
 中村彝の文面からは、フランス製のタペストリーを1日でも早く入手したがっている様子が、悪化する自身の健康状態に対する焦燥感とともにストレートに伝わってくる。彝は、「何か静物や人物画のバック等」と書いているので、タペストリーはまちがいなく壁ないしはドアに架け、モチーフのひとつとして描きたかったのだろう。このとき、中村彝の頭の中にあったタペストリーのデザインは、幾何学模様だったのか絵画調の作品だったのかはさだかではないが、絵柄についての言及がいっさいないところをみると、清水多嘉示とは事前にデザインについて打ち合わせ済みだったような気配がする。それは、この手紙のひとつ前に出された手紙の中で、触れられているテーマなのだろうか。

◆写真上:パリのサロン・ドートンヌで、洋画と彫刻が同時入選した画室の清水多嘉示。
◆写真中上:1923年(大正12)12月22日のスタンプが押された、中村彝からパリの清水多嘉示あてに出された手紙で宛名書き()と差出人名()。は、清水多嘉示が彝アトリエの庭で撮影した中村彝。の籐椅子に座る写真はめずらしいが、の芝庭に立つ彝の写真は『芸術の無限感』に収録されている。
◆写真中下:清水多嘉示が彝アトリエ近くで描いたと想定できる、湧水池のある林泉園の斜面(/提供:堀尾慶治様Click!)と林泉園からつづく渓流沿いの近衛町斜面(/提供:酒井正義様Click!)。は、フランスからの帰国後に帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)の教師時代の清水多嘉示(中央)。
◆写真下は、1923年(大正12)12月22日消印の中村彝から清水にあてた手紙。は、鈴木誠アトリエClick!時代のドアの1枚()と、1925年(大正14)2月におそらく下落合1443番地の木星社Click!福田久道Click!によって撮影されたアトリエ西側のドア()。は、ヨーロッパのタペストリーに多い幾何学模様デザイン。
掲載されている清水多嘉示の資料類は、保存・監修/青山敏子様によるものです。