画家であり彫刻家の清水多嘉示Click!は、東京高等師範学校(のち東京教育大学)の数学・統計学教授だった下落合731番地に住む佐藤良一郎と、どこかで知り合いだったものだろうか。あるいは、佐藤家の子どもが美術分野となんらかの関係があったものだろうか。なぜなら、冒頭の画面の風景は佐藤邸の敷地へ少なからず入りこまなければ、描くことができなかったはずだからだ。
 佐藤良一郎については、1927年(昭和2)9月12日に西武電鉄の下り電車へ飛びこんで自殺した、姪である伊藤かづよClick!の物語とともにご紹介している。その記事を読まれた方なら、冒頭に掲載した清水多嘉示の『風景(仮)』(作品番号OP285)をご覧になれば、「アッ!」と気づかれるかもしれない。同作品は、2015年(平成27)に武蔵野美術大学彫刻学科研究室が刊行した『清水多嘉示資料/論集Ⅱ』によれば、「滞仏期[1923-1928年]か」と疑問形で収録されている作品の1点だ。
 道筋こそ整備が進み、曾宮一念Click!佐伯祐三Click!が描いたころとはかなり異なる風情になってはいるが、同作は下落合731番地にあった佐藤邸の敷地から東を向いて描いた風景だと思う。換言すれば、清水多嘉示は画面に描かれている下落合623番地の曾宮一念アトリエClick!を訪ねたときか、あるいは下落合1443番地にあった木星社Click!福田久道Click!を訪ねる途中で、この風景に出あっているのかもしれない。木星社は画家が写生する背後(西側)、青柳ヶ原Click!を越えた直線距離で200mほどのところにあった。
 また、清水多嘉示は佐藤家とはなんら知り合いではなく、道すがら「ちょっとスケッチさせてくれませんか?」と断わってから、庭先へ入りこんでいるのかもしれない。下落合では、画家が道端や原っぱにイーゼルをすえ、あるいはスケッチブックを広げて写生する光景は日常茶飯であり、人気のある画家ともなれば近くの住民たちが出てきて、大勢のギャラリーClick!が集まるような時代だった。庭先に入らせてくれと断わりを入れた画道具を下げる清水にも、大正期から住みつづけている佐藤家では、さほど不審感は抱かなかったのかもしれない。描かれた画角から、佐藤邸が庭の広い旧邸の時代か、あるいは新邸への建て替え中で空き地になっていた可能性もある。
 この画面に近い位置にイーゼルを立て、早い時期にタブローを仕上げているのは、ほかでもない曾宮一念だ。1923年(大正12)に制作された『夕日の路』Click!は、右へクラックしながら奥へとつづく、雨後のぬかるんだ道路の手前から、やはり清水と同様に東を向いて自身のアトリエを左手に入れながら描いている。そこに描かれた曾宮アトリエは、1921年(大正10)3月に竣工Click!したばかりの初期の姿で、清水の画面に見られるような増改築が加えられたあとの姿ではない。
 曾宮アトリエの増改築は、江﨑晴城様Click!による残された図面Click!によれば、1931年(昭和6)すぎに行なわれているとみられ、清水の『風景(仮)』(OP285)は1931年(昭和6)以降に描かれた作品である可能性が高いことになる。また、曾宮一念は一時、目白文化村Click!の第三文化村にあった目白会館・文化アパートClick!に住んでいるが、この1931年(昭和6)すぎごろの大規模な増改築の時期と重なるのかもしれない。
 もうひとり、この場所を描いているのは1926年(大正15)8月の、暑い盛りにイーゼルを立てていた佐伯祐三だ。清水の画面左手に、赤い屋根がふたつ重なる谷口邸がいまだ建設されておらず、同邸の敷地が日本画家・川村東陽邸Click!の庭の一部だった時代だ。その敷地を斜めに横切る道路(というか自然にできた通行路だろう)から、曾宮アトリエのある方角の東南東を向いて描いたのが、佐伯による「下落合風景」シリーズClick!の1作『セメントの坪(ヘイ)』Click!だ。同画面では、曾宮アトリエは左枠外でほとんど入っておらず、庭先の桐の枝がかろうじて描かれている。また、同じ構図のタブローが、少なくとも10号(二科賞受賞の記者会見写真Click!)と15号(佐伯の「制作メモ」Click!)、そして40号(曾宮一念の証言Click!)の3枚ありそうなことが判明している。



 さて、清水多嘉示の画面にもどろう。この作品が描かれたのは、少なくとも先述のように曾宮アトリエの増改築が行われた1931年(昭和6)以降だとみられる。正面に切妻の見えている、焦げ茶色の外壁をした尖がり屋根の建物が曾宮一念邸だ。アトリエの意匠やカラーリングは、朱色の屋根瓦にするなどどこか中村彝アトリエに近似している。屋根の南側にドーマーを設け、室内を明るくしたものか竣工時とはやや形状が変化している。その切妻の右手(南西)の庭には、曾宮が大切にしていた桐らしい樹影が描かれている。
 曾宮邸の手前(西隣り)、赤い屋根がふたつズレて重なる大きな家が、昭和に入ってほどなく建設された谷口邸だ。同邸は、昭和10年代に入ると敷地の手前(西側)へ、さらに独立した家を1軒増築しているとみられるので、この光景は昭和ヒトケタの年にしか見られなかっただろう。ちなみに、谷口邸の左側(北隣り)の敷地には、1933年(昭和8)ごろに蕗谷虹児Click!一家がアトリエを建てて住むことになる。したがって、清水多嘉示はパリでいっしょだった蕗谷虹児を1933年(昭和8)ごろに訪問して、この画面を描いているのかもしれない。1926年(大正15)9月に、パリの日本人俱楽部で行われた清水登之Click!送別会の記念写真を見ると、清水多嘉示と蕗谷虹児がともに写っている。
 画面の右側(南側)には、かつて曾宮一念が『冬日』Click!に描いた“洗い場”のある諏訪谷Click!が口を開けている。この時期、すでに“洗い場”は90mほど南へ移設され、諏訪谷は1926年(大正15)ごろからの宅地開発がつづいていたはずだ。諏訪谷に建設中の住宅群は、1926~1927年(大正15~昭和2)の秋から冬にかけ、佐伯祐三が『曾宮さんの前』Click!『雪景色』Click!として、判明しているだけでもタブロー4点に仕上げている。
 画面の右手に描かれた、コンクリートらしい門のある家は、諏訪谷の北斜面に建てられていた古家(佐伯の『セメントの坪(ヘイ)』にも画面右手に描かれている)のうちの1軒だと思われる。鈴木誠Click!が一時期住み、「化け物屋敷」Click!と呼んでいたボロボロの住宅も、諏訪谷の斜面に建つ古家の1軒だったのかもしれない。諏訪谷の斜面は、しばらくすると大規模な地形改造の整備工事が行われ、ほとんど谷底から90度直角となるようにコンクリートの擁壁が築かれ、現在ではハッキリと谷上と谷底の敷地に分かれてしまい、斜面はまったく存在しなくなっている。



 また、清水多嘉示の『風景(仮)』(OP285)には、バリエーション作品として『風景(仮)』(OP284)が存在している。空模様が異なるし(前者が晴れで後者が曇り)、谷口邸の南側に設けられた門には、祝日なのか日の丸が2本掲げられているのが見えるので、明らかに別の日に描かれたものだ。興味深いのは、画面右下の隅に、佐伯が『セメントの坪(ヘイ)』で描いたコンクリートの塀と、まったく同じ意匠の塀が描かれていることだ。門柱の先端が三角形(四角錐)に尖り、1段下がった位置からコンクリートの塀がつづく造作だ。諏訪谷北側の丘上には、同時期に建築された同じ意匠のコンクリート塀が、断続的に東西へ連なっていたのかもしれない。
 さらに、祝日の『風景(仮)』(OP284)に描かれた曾宮邸の屋根を見ると、今度は北側の屋根=アトリエの採光窓の上にも、ドーマーらしい構造物が新たに設置されているのが見えるので、『風景(仮)』(OP285)と祝日の『風景(仮)』(OP284)の間には、大工仕事が進捗する数週間ほどの時間差があるのかもしれない。描画位置も微妙に異なり、祝日の『風景(仮)』(OP284)では右手の樹木の幹までが見えているので、より佐藤旧邸の庭(あるいは建て替え中の空き地)の奥へ入りこんでいるように見える。
 清水多嘉示は、この画面を制作するとき、どのような用事で下落合を訪ねているのだろうか? この画面が1933年(昭和8)ごろであれば、パリでいっしょだった下落合622番地の蕗谷虹児アトリエを訪ねているように思えるが、曾宮アトリエが工事期間中のようにも見えるので、もう少し早い時期なのかもしれない。渡仏する前、清水は二科へ出品していたし、また中村彝Click!アトリエでも頻繁に顔をあわせていたと思えるので、旧知の曾宮一念Click!を訪ねる可能性はあるだろう。また、美術誌「木星」を発行していた、木星社の福田久道を訪問する途中だったものだろうか。いずれにしても、2作品は1931年(昭和6)から1933年(昭和8)ごろにかけ、下落合の諏訪谷で描かれたように思える。



 清水多嘉示が、パリでいっしょだった蕗谷虹児だが、ふたりが参加した清水登之送別会の記念写真には、左手に下落合540番地の大久保作次郎Click!が写っている。清水多嘉示とともに同送別会の幹事のひとりをつとめた大久保だが、清水とは中村彝つながりで渡仏前より知り合いだったろう。ときに、清水は彝アトリエから北北東へ直線距離で240mほどのところにある、大久保作次郎アトリエClick!を訪ねてやしないだろうか。それを示唆するような、渡仏前の作品が残っているのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:下落合の諏訪谷北側を描いたみられる、清水多嘉示『風景(仮)』(OP285)。
◆写真中上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる描画ポイント。いまだ谷口邸は建てられておらず、曾宮アトリエ前の道路が修正中の様子をとらえている。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる描画ポイント。佐藤邸は新邸に建て替えられたあとであり、1930年(昭和5)の1/10,000地形図に採取された邸よりもかなり大きくなっている。は、1938年(昭和8)の「火保図」にみる描画ポイント。やはり新邸の佐藤邸を採取したもので、庭がかなり狭くなっている。
◆写真中下は、描かれた風景の現状だが佐藤邸跡には住宅が建っていて描画ポイントには立てない。は、2011年(平成23)にたまたま整地しなおされた佐藤邸跡を撮影したもの。こんなことなら、空き地に入りこみ東を向いて撮影しとくのだった。は、1926年(大正15)9月15日にパリの日本人俱楽部主催で開催された清水登之送別会の記念写真。前列の中央には、こちらでも林芙美子との関連で紹介Click!済みの「黒メガネの旦那」こと石黒敬七Click!が座り、その左端が清水多嘉示。後列の右から4人目に蕗谷虹児が、また左から3人目には相変わらず蝶ネクタイが好きな大久保作次郎がいる。また、中列の右端にいるのは下落合630番地に住んでいた森田亀之助。
◆写真下は、バリエーション作品の清水多嘉示『風景(仮)』(OP284)。は、曾宮一念アトリエ跡の方角から佐藤邸跡(西側)を眺めた現状。佐藤邸跡には、現在4棟の住宅が建っている。は、描かれた道路から諏訪谷(南側)を向いた眺望。
掲載されている清水多嘉示の作品と資料類は、保存・監修/青山敏子様によります。