もともとは町会名簿に掲載されていた、時代的にはもう少し前の文章のようだが、1998年(平成10)に落合第一特別出張所から発行された『新宿おちあい―歩く、見る、知る―』には、長谷部進之丞Click!の興味深い文章がイラスト入りで掲載されている。『古事随想』と題されたそれには、大正末から昭和初期にかけて見られた下落合の風景や伝承が、少年時代の想い出とともに活写されている。
 1931年(昭和6)に国際聖母病院Click!と補助45号線(聖母坂)が竣工すると、青柳ヶ原Click!と名づけられた南へゆるやかに下る丘は消滅するが、第三文化村Click!がつづく谷間=西ノ谷(大正中期以前は不動谷Click!)は、相変わらず子どもたちの格好の遊び場になっていた。寺の息子である、西ノ谷(不動谷)の北側にアトリエをかまえた佐伯祐三Click!が、パーティー用の小ぶりなクリスマスツリーClick!を沼地の端から伐りだしていた谷戸だ。子どもたちにしてみれば、西ノ谷は虫たちの宝庫だったらしい。
 先の長谷部進之丞『古事随想』から、当該部分を引用してみよう。
  
 <聖母>病院の裏は急坂になっていて谷間があり、沼もあり、雑木林が茂っていました。この場所を通称「たにやま」と言っていました。この“たにやま”は、子供たちにとっては絶好の遊び場所でかぶと虫をはじめとして沢山の昆虫が棲息していました。又、赤土の崖があり、その下の方を掘ると、時々粘土が出て来るので、採掘し粘土細工として私たちの遊びの一つでした。雑木林と笹薮には人が歩いて自然に出来た細道があり、沼を見ながら釣堀を越えると目の前は徳川男爵家の静観園(現在の全農鶏卵・保谷ガラスの上の方です)という広い敷地の別邸でぼたんの花で有名です。毎年五月のぼたんの咲く季節になると開園し、竹の柵を巡らし順路にそって各種の色とりどりのぼたんが咲き乱れ、又下の方の池の向かい側の藤棚には薄紫の花が垂れ下がって、その奥一帯は、つつじが美しく咲き絶景でした。又、小さな茶屋があり、お茶の接待もありました。勿論近辺の人々、プロの写真家、画家など大勢押し寄せて賑わい、私も学校の図画の時間に写生に来たものでした。(<>内引用者註)
  
 「たにやま」という呼称は初めて聞いたが、小流れのある谷間に下ると周囲を山に囲まれているような風情の、当時は典型的な谷戸地形だったのだろう。第三文化村の家々も、大谷石による築垣はなされていたものの、森の中に点在するような光景だったのは当時の写真Click!からもうかがえる。赤土の下の「粘土」は、関東ロームの下にある地下水脈を含むシルト層のことで、同層が露出した斜面からは豊富な水が沁みだしていたと思われる。その清水を利用して、釣り堀Click!が開業していたのはご紹介ずみだ。
 西坂の丘上に建っていた徳川邸Click!のボタン園「静観園」Click!は、西ノ谷に面した東側の斜面に移動したあとの姿だ。徳川様の記憶によれば、もともと徳川邸(旧邸)の北側に展開していた静観園は、より規模の大きな新邸(西洋館)が計画されると、昭和初期に北側(現・西坂公園あたり一帯)からバラ園Click!の東側にあたる斜面に移された。その移設の過程で、植木屋ないしはドロボーの仕業だろうか、たくさんのボタンの苗が行方不明になったエピソードは、徳川様の証言としてこちらでもご紹介している。ちなみにHOYA(保谷硝子)本社は、クリスタル事業の終了とともに下落合から西新宿へと移転している。



 つづいて、長谷部進之丞『古事随想』から引用してみよう。
  
 聖母坂を目白通りに向かって上ると右手裏(現在のコンビニストアと調剤薬局)に「洗い場」(現在でも少しですが清水が湧いている)と言ってコンクリート造りの立派な貯水池があって、そこには冷たくて美味しい清水が音を立てて湧いて洗い場に注いでおり、バケツにアッという間にいっぱいになりました。近在の農家の人々や地域の人々が洗い物をしたりして便利に利用していた反面、地域の子供たちにとっては、格好の水泳場でした。ところが、水があまりにも冷たいので長い時間は泳げず、身体が冷えて来ると、近くにある石段に寝転んで甲羅干しをして身体を温めたものでした。また夕方になると大型のとんぼ(ぎん・ちゃん・鬼やんま等)の大群が産卵に水を求めて洗い場めがけて押し寄せるので、子供ばかりでなく親もいっしょにとんぼ捕りに熱中してしまう毎日でした。
  
 「コンビニ」は、すでに廃業して久しいヤマザキデイリーストアのことだが、そのあたりに昭和初期には諏訪谷Click!から移設されてきた新・洗い場Click!が形成されていた。諏訪谷にあった大正期の旧・洗い場は、曾宮一念Click!『冬日』Click!に描かれているが、その位置から80~90mほど南へ移設されている。
 現在でも雨が降ると地下水脈がふくらみ、湧水がどこからか沁みだすか地下からせり上がってくるのだろうか、低い窪みには建物が存在せず、ちょうど小さなプールの形状のままコンクリートで固められた半地下の駐車場になっている。また、長谷部のイラストに描かれた洗い場北側のコンクリート階段は、現在でも一部がそのままビルと家屋の間に細長く残されている。ちなみに「ちゃん」ヤンマとは、関東地方の方言だろうか、空色の帯が入らないギンヤンマの♀のことだ。
 さて、この記事のテーマである伊藤博文別邸の話は、『古事随想』の後半に登場してくる。わたしはその昔、大倉山Click!(権兵衛山)には伊藤博文の別荘が建っていたという伝承を、何人かの方からうかがっている。だが、いくら明治期の資料や地図をひっくり返しても、伊藤博文邸は採取されていない。
 わたしにとって伊藤博文の別荘といえば、横浜市の金沢地域にあったすでに現存しない別邸と、子どものころは中華料理レストランとなっていて、休日には親とともに通っていた湘南・大磯Click!別邸「滄浪閣」Click!(のち本邸)のことで、下落合のイメージはまったくなかった。だが、明治期には郊外別荘地として拓けた目白崖線沿いを眺めていると、椿山の山県有朋邸Click!(椿山荘Click!)や目白台の細川邸、先の徳川別邸(のち本邸)など、その斜面や丘上には当時の華族や政治家の本邸・別邸が建ち並んでいる。ほんの一時的な期間にせよ、伊藤博文の別荘が下落合にあってもなんら不自然ではないと感じている。



 では、引きつづき『古事随想』から引用してみよう。
  
 三輪邸から細い道を右へ曲がり左側に伊藤伯爵邸(現在の落合中学) 右側に落合第四小学校(創立七〇年)があり、当時の第四小学校はまだ新しい校舎で綺麗で高台の校庭からは、新宿百人町、戸山町全景が一望に、戸山が原の三角山(今は無い)も目の前に見えました。今では高い建物が建って眺望を遮ってしまった事は寂しい限りです。突き当たりは、相馬邸跡、現在のおとめ山公園ですが、さすがに相馬の御殿の御屋敷は広大で立派な門構えが威風堂々とした緑の大きなかたまりの様に子供心に感じました。
  
 「三輪邸」はミツワ石鹸Click!社長の三輪善太郎邸、「三角山」Click!は山手線東側の戸山ヶ原Click!にある射撃場に築かれていた防弾土塁Click!のことだ。
 伊藤別邸が建っていたという伝承が大倉山(権兵衛山)だったということで、わたしは戦前まで大倉財閥が所有していた、現在の権兵衛坂から上る大倉山ピークあたりを想定していたのだが、この文章からするとピークから北東側にやや下がった落合中学校の敷地ということになる。いまだ近衛邸も相馬邸も存在せず、鎌倉期に拓かれた七曲坂を上がりきり右手へ少し入ったところに、ポツンと伊藤別邸が建っていたことになる。
のちの調査では、旧・土地台帳には大倉喜八郎や伊藤博文に関する記載はなく、伊藤の死後の1914年(大正3)に大倉発身が土地を購入しているので、「大倉山」の由来は大正以降のことではないかとみられる。詳細は、こちらの記事Click!へ。
 明治最初期からの地形図を順番にたどっていくと、のちに大倉山(権兵衛山)と名づけられた丘は、確かに戦前の大倉財閥の所有地エリアを越えて、落合中学校のあたりまでがひとつの丘の盛り上がりとして把握することができる。現在の相馬坂は、御留山Click!と大倉山(権兵衛山)の間のやや低くなったコル=乗越(のっこし)を利用して開かれたようだ。つまり、伊藤別邸が「大倉山にあった」という表現は、落合第四小学校Click!さえなかった大正期あたりの伝承が、そのまま後世にまで語り伝えられてきたと推定することができる。換言すれば、大正期以前は落四小学校と落合中学の敷地も、すべて大倉山(権兵衛山)と総称されたエリアであった可能性が高い。
 落合中学校の敷地に伊藤別邸が建っていたとしても、伊藤博文は1909年(明治42)に暗殺されているから、別荘の存在はそれ以前ということになる。だが、1880年(明治13)の1/20,000フランス式地形図から、1909年(明治42)の1/10,000地形図まで、建築物が採取された落合地域の地図は見たことがない。そして、1909年(明治42)の地形図では、この位置に建物は存在しないことになっている。
 もし伊藤別邸が建っていたとすれば、それ以前、明治中期の落合地図を参照したいのだが残念ながら存在しないのだ。落合中学の敷地に、やや大きめな建物が確認できるようになるのは、大正期に入ってからのことだ。明治期の地番でいうと、落合村(大字)下落合(字)本村334番地とその周辺域ということになる。




 こうなると、明治初期のフランス式地形図Click!や陸軍士官学校の測量演習地形図Click!のように、特別な目的で作成された落合地域を描く地図でも発見できない限り、伊藤別邸の確認・規定はむずかしそうだ。伊藤博文の日記類や書簡を含む膨大な資料類には、下落合の別邸についてなにかの記録が眠っているのかもしれないが、わたしにはそこまで熱心に手間ヒマかけて調べてまわるほど、残念ながらこの人物に興味も関心もない。

◆写真上:左手が伊藤博文別邸跡とされる落合中学校で、正面が相馬邸跡の御留山。
◆写真中上は、長谷部進之丞が描いた昭和初期の西ノ谷(不動谷)。は、同谷へ下りる坂道で右手が吉田博アトリエClick!跡。は、第三文化村が開発された同谷の一画。
◆写真中下は、長谷部進之丞が描く新・洗い場。は、現在でも残る洗い場へのコンクリート階段の一部。は、いまだに湧水がある洗い場跡の駐車場。
◆写真下は、1921年(大正10)の1/10,000地形図にみる伊藤博文別邸跡。敷地の北寄りに大きめな邸が描かれているが、大正期に入ってから建設された住宅だ。は、大倉山(権兵衛山)に通い七曲坂へと抜ける古い道筋で右手が伊藤別邸跡の伝承が残る落合中学校。は、子どものころからお馴染みの大磯・伊藤博文別邸「滄浪閣」(のち本邸)。