下落合の相馬邸が、1939~1940年(昭和14~15)にかけ中野区広町20番地へ転居Click!した際、なぜ移転先に旧・中野町が選ばれているのか?……という疑問を、前回の記事の最後に課題として残しておいた。赤坂から下落合への転居に関しては、多彩な巫術的なテーマClick!から、あるいは下落合の神田明神分社Click!や葛ヶ谷(現・西落合)妙見山Click!の存在といった側面から考察してきたが、次の転居先である旧・中野町(古くは中野郷)については、いったい何が見えてくるだろうか。
 さっそく、旧・中野町(現・中野区の南部一帯)の伝承やフォークロア、江戸期の資料などを当たってみると、いろいろ面白い故事や伝承が見つかった。まず、中野地域の「七天神八第六」伝承から検討してみよう。ここでいう「七天神(ひちてんじん)」Click!とは、平安期以降に京で奉られた菅公Click!のことではなく、日本神話における第一天神のクニノトコタチから第七天神のイザナミとイザナギの、七天神を指していると思われる。その中で第六天神Click!に相当するのが、海陸の生き物や自然を形成するカシコネとオモダルの夫婦(めおと)神だ。
 明治政府は、皇国史観Click!と日本の社(やしろ)では比較的新しい伊勢社=伊勢神道を「国家神道」化するために、アマテラスの祖神(おやがみ)である第七天神のイザナミとイザナギのみを創造神として残し、第一天神から第六天神までの社を抹殺しようと試みている。「日本の神殺し」Click!といわれる、日本神話のご都合主義的な歪曲と改変が、明治の薩長政府によって推進された。古くは縄文期の七星信仰に由来するとみられる、日本古来の第一から第六天神までを含めた多種多様な神々の社が、おもに近畿圏を中心にして全国から抹殺されようとした。
 ここで留意したいのは、中野地域の古くからの伝承である「七天神八第六」の「七天神」が、江戸期あるいはそれ以前からつづく北斗七星信仰(のち妙見信仰へ習合)と結びついた、古来からの日本神話にもとづく天神7社であった可能性が高いということだ。また、カシコネとオモダルを奉った第六天社が、中野地域(現・中野区南部)だけで8社もあったということは、なおさら本来の日本神話で語られていた神々の痕跡が、色濃く残存していた経緯あるいは事実を裏づけている。「七天神八第六」の伝承を、1933年(昭和8)に出版された『中野町誌』(中野町教育会)から引用してみよう。
  
 昔より七天神八第六と唱へて、中野に天神七社第六天八社ありと云伝ふ。此の内第六天社には皆椿の木を植えて、椿明神と唱へたる口碑あるも、由来を詳かにせず。古老曰く、谷戸城山傍に藤の木ありし天神、打越天神、西町の天神。圍の神田男旧邸内、嵯峨の里関口氏の南高台、旧農事試験場内、中野氷川神社横、上ノ原浅田氏畑内及び原に在る第六天等にて、他は知らずと云へり。
  
 第六天8社の所在は、かろうじて昭和初期まで伝えられているが、天神7社の位置はまったく不明になっている。七天神の象徴である北斗七星は、もちろん北斗妙見信仰に篤い将門相馬家Click!に直結するフォルムであり、相馬家のシンボルそのものだ。



 もうひとつ、中野地域の古来からの伝説に、江戸期まで伝わっていた「中野の七塚」がある。江戸前期から中期にかけての地誌、『江戸砂子』から引用しよう。
  
 此辺に塚七つあり何の塚なるやしれず、かくいひ来るは古き事なりといふ、二三所はその所もしれたり云々……(以下略)
  
 すでに江戸時代になると、塚の所在地が不明になりつつあった様子がうかがえる。この「七塚」が先の天神と照応するのかも、江戸期の文献ではすでに規定できていない。また、江戸後期に編纂された『江戸名所図会』では、さらに伝承が錯綜し混沌としており、さまざまな周辺で語り継がれた物語と習合してしまっているのがわかる。つづいて、『江戸名所図会』から引用しよう。
  
 里諺に中野長者正蓮仏々供養の為め高田より大窪辺の間に、百八員の塚を築くと云ひ伝ふ、こゝに七塔といへるも其の類のものならんか、又中野の通りの右側叢林の中に三層の塔あり、七塔の一ならんか、伝へいふ、中野長者鈴木九郎正蓮が建つるところにして、昔は成願寺の境にありしを、後世いまの地へ移すといへり、
  
 「中野の七塚」の伝承が、いつの間にか戸塚や高田、落合、大久保の旧・神田上水沿いに伝わる、室町期の下戸塚(現・早稲田エリア)は宝泉寺の僧侶・昌蓮の「百八塚」Click!伝説と結びつき、さらに「中野長者」Click!伝説とも混同・習合してしまっている様子がうかがえる。
 江戸前中期の『江戸砂子』では、なんら「百八塚」や「中野長者」の伝説に連結しない記述なので、ここは素直に7つの塚(古墳)が並んで展開している土地が、古くから事実として中野地域内にあったと解釈したい。そこで想起したいのは、相馬家の故地である千葉(チパ:原日本語で「頭」=大半島)の「七星塚」の存在だ。なんらかの塚状古墳が、どのような形状をしていたか(七星を思わせるフォルムだったろうか?)はもはや不明だが、7基にわたって展開していた時代があったということだろう。ひょっとすると、縄文遺跡に関連するなんらかのメルクマールだったのかもしれないが、この伝説も相馬家が中野地域へと移転する、ひとつの理由として挙げられそうだ。



 さらに、忘れてはならない歴史的な大事件が中野地域で起きている。もちろん、平将門Click!を中心とする坂東武者たちが一斉蜂起した、「天慶の乱」の古戦場のひとつが「中野ノ原」だったということだ。しかも、室町期の1300年代半ば(延文年間)には、古戦場に平将門一族の霊気がとどまっていたという伝承があり、一遍上人から3代目の僧侶・真教が中野地域へ立ち寄り、将門の霊を供養する行事を行っている。上掲の『中野町誌』から、再び引用してみよう。
  
 中野郷の内其地いづかたなるか知らず、天慶三年二月十四日平将門は、下総石井の里に於て平貞盛の矢に当りて藤原秀郷之を討つ、其頃将門の弟御厨三郎将頼、武州多摩郡の中野の原に出陣し、秀郷の男千晴と戦ひ、将頼利なくして同年七月七日、川越[中野ともいふ]に於て討死す。中野の古戦場に霊気とゞまり人民を煩す事件あり。延文の頃一遍上人三代真教坊、当所遊行のとき村民この事を歎く、その党の長なれば将門の霊を相殿に祀りて、神田大明神二座とす云々。
  
 とても興味深いのは、ここでも下落合と同様に神田明神の分社化が行われている点だ。この分社の事実は、『江府名跡志』や『武蔵名勝図会』などにも記載されており、1300年代中期(南北朝時代)に実施されていることから、ひょっとすると江戸期の文献に記載されている下落合の神田明神分社よりも古い社(やしろ)かもしれない。
 以上のように、古代からつづく北斗七星信仰(のち妙見信仰)を強く想起させる「七天神」社の存在、将門相馬家の故地である千葉の七星塚を想起させる「中野七塚」伝承、そして平将門・将頼兄弟ゆかりの古戦場と神田明神分社が存在していた中野地域……と、これだけの強い関連性や濃いつながりが確認できれば、相馬家が下落合の次に中野(旧・中野郷エリア)を選んで転居している動機づけとしては十分だろうか。



 余談だけれど、前回の広町相馬邸の記事中で、神田川流域では最大クラスとなる古墳時代後期の集落遺跡「釜寺東遺跡」をご紹介しているが、同河川流域では最大級のタタラ遺跡が、中野地域で確認されている。広町相馬邸から、東へ1kmほどのところにある本郷氷川明神社と藤神稲荷社(下落合の氷川明神社と藤稲荷社に近似している点にも留意したい)に挟まれた沿岸一帯が、大規模なカンナ(神奈)流しClick!が行われたエリアだ。同遺跡からは、昭和初期の発掘調査で鉄糞(かなぐそ)はもちろん、古墳の副葬品とみられる鉄剣や鏡、鈴などが出土しているのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:広町相馬邸の崖下を流れる神田川で、向かいは東京メトロ中野検車区。
◆写真中上は、広町相馬邸跡の南側に拡がる草原。は、同相馬邸の北側に架かる駒ヶ坂橋から眺めた善福寺川の上流。は、釜寺東遺跡が発見された神田川の段丘。
◆写真中下は、御留山に残る下落合相馬邸の七星礎石。は、1915年(大正4)の竣工直後に撮影された下落合の相馬邸表屋敷で、1915年(大正4)制作の『相馬家邸宅写真帖』(相馬小高神社宮司・相馬胤道氏蔵)より。は、中野の広町相馬邸で1941年(昭和16)に撮影されたとみられる相馬恵胤・雪香夫妻。(提供:相馬彰様)
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる大規模なタタラ遺跡の周辺。は、『中野町誌』より1933年(昭和8)に旧・神田上水に架かる花見橋あたりから上流に向いて撮影されたタタラ遺跡一帯(右手)。は、現在の神田川に架かる花見橋から見た同所。