10年前に、佐伯祐三Click!「制作メモ」Click!に記載された作品が、下落合(現・中落合/中井含む)のどこを描いたものかを整理Click!したことがある。10年余が経過したいま、新たに発見した画面や作品も増えているので、改めてまとめてみたいと思う。
 まず、10年前には確認できる「下落合風景」シリーズClick!(タブローに限定)が42作品、また展覧会の会場などで撮影され写真にとらえられた「下落合風景」と思われる作品が2点、落合地域の周辺を描いたとみられる作品が3点(『踏切』Click!『戸山ヶ原』Click!『絵馬堂』Click!など)という状況だった。ところが、現在は「下落合風景」とみられる画面が49点、実際の画面は未確認だが確実に存在したと思われる作品が4点の、つごう53点となっている。
 ただし、わたしがさまざまな資料類や証言、作品の描かれた時期などから推定した制作点数は、おそらく53点どころではなく、ケタちがいの数にのぼるのではないかということは、これまでの記事でも何度か触れてきたとおりだ。たとえば、佐伯は第1次対仏から帰国すると、さっそく下塗りしたキャンバスを600枚準備(渡辺浩三証言Click!)しているが、第2次渡仏までの帰国中に残した作品点数にまったく見合っていない。佐伯作品の頒布会を通じて、おもに関西方面へと大量に販売された作品点数や画面が不明な以上、「下落合風景」が50点あまりとするにはあまりに根拠が薄弱すぎるのだ。
 また、「制作メモ」に残された1926年(大正15)の9月から10月にかけての期間だけ、「下落合風景」シリーズを制作していたというのも明らかな誤りだ。二科賞を受賞した直後、同年9月1日に佐伯アトリエで行われた記者会見Click!には、少なくとも8月以前に制作された「下落合風景」のタブローが佐伯夫妻の背後にハッキリととらえられている。また、1930年協会第2回展Click!(1927年6月)へ出品するために、八島さんの前通りClick!を北側から描いた「下落合風景」Click!は、納三治邸Click!が竣工する前後、1927年(昭和2)5月ごろに描かれているとみられる。
 さらに、従来は『雪景色』Click!とされていた描画場所の言及がない作品の数々もまた、明らかに佐伯アトリエからほど近い下落合の風景を描いたものだ。つまり、佐伯は帰国後ほどなく自宅周辺の風景を描きはじめているのであり、また第2次渡仏へと向かう直前まで、「下落合風景」を制作しつづけていたことになる。
 さて、「制作メモ」に残る「下落合風景」の描画ポイントを改めて整理してみよう。新たに海外で見つかった作品や、その存在が確認できたものも含め、最新のデータをもとに1926年(大正15)9月~10月の、佐伯祐三がたどった足跡を見直してみよう。



▼9月18日(曇天) 「原」(20号)、「黒い家」(20号)
 「黒い家」は、「くの字カーブの道」Click!の東寄りから射す逆光に浮かびあがる黒い屋敷(宇田川邸?)の作品ではないかと考える。同日の「原」は、キャンバスが同じ号数のこともあり、「黒い家」が建っていたと思われる、六天坂上の原っぱのことではないか。
▼9月19日(晴天) 「原」(15号)、「道」(15号)
  「原」Click!「道」Click!は、きわめて近接している描画位置だ。第二文化村の北側に通う、葛ヶ谷(西落合)との境界の道筋を歩いているときに、佐伯の目にとまった2景。
▼9月20日(晴天) 「曾宮さんの前」(20号)、「散歩道」(15号)
  「曾宮さんの前」は、間違いなく曾宮邸の南側・諏訪谷のことを指している。秋と冬に何度か描かれた、諏訪谷風景Click!に相当するだろう。一方、「散歩道」Click!は先年に海外オークション(米国クリスティーズ)へ出品された作品で、諏訪谷から南へとつづく久七坂筋を描いたものだ。オークションでは、「下落合風景」の「散歩道」と規定して出品されていたので、キャンバスに裏書きが存在する可能性が高い。当作品の発見で、薬王院から諏訪谷にかけての佐伯が散歩をした道筋が透けて見えてきた。
▼9月21日(曇天) 「洗濯物のある風景」(15号)
  下落合の西端、中井御霊神社の下Click!まで出かけたせいか、この日はこれ1作しか描いてない。もう一度、雪が降った日に佐伯はここまで遠出Click!をして制作している。
▼9月22日(小雨) 「墓のある風景」(20号)、「レンガの間の風景」(15号)
  諏訪谷の南にある、薬王院の墓地Click!を描いたもの。同日の「レンガの間の風景」は号数が異なるので、アトリエへ一度もどっているようで薬王院の周辺とは限らない。
▼9月24日(小雨) 「かしの木のある家」(15号)
  現存する画像にそれらしい1作Click!があるけれど、いまだ描画位置を特定できない。大倉山(権兵衛山)にはカシの神木Click!が存在したが、同所の風景ではない。その後の調査の進捗や深化で、第二文化村近くの描画ポイントClick!を推定することができた。
▼9月25日(小雨) 「曇日」(15号)
  作品の画面も場所も不明のままだ。佐伯の描く絵の多くが曇り空なので、どれでも当てはまりそうだ。佐伯はどこで描いていたのかが、謎の1日。
▼9月26日(曇天) 「上落合の橋の附近」(20号)
  この作品は、いまのところ該当する画面が1作Click!しかない。描画場所は、昭和に入って妙正寺川の整流化工事で消えてしまった橋の付近、のちの昭和橋の情景とみられる。
▼9月27日(晴天) 「夕方の通り」(20号)、「遠望の岡」(20号)
  「夕方の通り」Click!は、おそらく城北学園(言・目白学園)北側の道筋を描いた作品だと考えている。また、同作品にはバリエーションのあることが、展覧会の写真Click!からも見てとれる。ただし、この日に描かれたのは「遠望の岡」のほうが先だ。アビラ村Click!付近で丘上から遠望のきく坂といえば、二ノ坂の上から百貨店ほてい屋が望める新宿方面を描いたものだろう。
▼9月28日(晴天) 「八島さんの前通り」(20号)、「門」(20号)
  この2作の描画位置は明白だ。佐伯アトリエから徒歩1分と離れていない、第三文化村の東側に接した通りClick!と、八島邸の門Click!の前を描いた作品だ。
▼9月29日(晴天) 「文化村前通り」(20号)、「切割」(20号)
  「文化村前通り」は、第二文化村の南端を通る道筋Click!だと思われる。また、「切割」はその道を西へと進み、左折した坂を下った二ノ坂下のカーブClick!のように思える。
▼9月30日(雨天) 「坂道」(20号)、「玄関」(15号)
  この2作も不明のままだ。下落合は「坂道」だらけだし、また「門」を描いた作品は何点か確認できるが、「玄関」を描いた画面は現存していない。雨降りの日なので、午後からアトリエ付近に建つ家の玄関を描いたものか?



▼10月1日(小雨) 「見下シ」(20号)
  目白崖線の丘上から下を見おろす作品をいくつか描いているが、久七坂沿いの斜面に建っていた旧・池田邸の、鯱(フィニアル?)の載る赤い屋根の作品Click!に比定できる。
▼10月2日(快晴) 「晴天」(20号)、「遠望」(20号)
  快晴と思われる気象条件で描かれた作品は数えるほどしかないけれど、該当する画像は思い当たらない。また、快晴の遠望作品の画面も見たことがない。
▼10月7日(曇天) 「松の木のある風景(〇〇が畑/細道)」(15号)
  松の木が描かれた作品は現存しない。病気の直後なので、自宅付近を描いたものか。
▼10月10日(小雨) 「森たさんのトナリ」(20号)
  これは、下落合630番地の森田亀之助邸Click!の隣りにあった、里見勝蔵アトリエClick!として使われる家屋を描いたもの。佐伯邸から120mほどのごく近くだ。
▼10月11日(曇天) 「テニス」(50号)
  第二文化村に設置されていた、益満邸のテニスコートClick!を描いている。戦前から落合第一小学校の校長室Click!に架けられていたが、現在は新宿歴史博物館に収蔵されている。
▼10月12日(晴天) 「小学生」(15号)
  おそらく、落合第一尋常小学校Click!の界隈を描いていると想像できるが、小学生たちが登場するそれらしい画面は現存していない。
▼10月13日(快晴) 「風のある日」(15号)
  第一文化村の水道タンク近く、旧・宇田川邸の風景Click!だ。いまは、山手通りと十三間通りClick!(新目白通り)の交差点下になっており、描画ポイントに立つことができない。
▼10月14日(快晴) 「タンク」(15号)
  第二文化村の箱根土地社宅用地の近くに設置された、水道タンクClick!を描いたもの。現在の、下落合教会Click!(下落合みどり幼稚園Click!)に隣接した一帯だ。
▼10月15日(曇天) 「アビラ村の道」(15号)
  第二文化村をすぎて、アビラ村の尾根沿いの通りClick!を描いたもの。すでに佐伯が描いたときは、東京土地住宅によるアビラ村開発Click!は同社の経営破たんにより中止。
▼10月21日(快晴) 「八島さんの前」(10号)、「タテの画」(20号)
  またしても病気の直後だからか、佐伯アトリエに直近の通りClick!を描いている。
▼10月23日(晴天) 「浅川ヘイ」(15号)、「セメントの坪(ヘイ)」(15号)
  2作とも、曾宮邸のあった諏訪谷周辺を描いている。「セメントの坪(ヘイ)」Click!曾宮一念アトリエClick!の南側を描き、「浅川ヘイ」Click!は道を隔てた東側の浅川秀次邸を描いているが現存していない。また、「セメントの坪(ヘイ)」には、制作メモに残る15号のほかに曾宮一念が証言Click!する40号サイズと、1926年(大正15)8月以前に10号前後の作品Click!(習作?)が描かれている。
 以上のように作品の描画ポイントの特定をしていくと、期せずして佐伯祐三が下落合を歩いた軌跡が、時系列とともに浮かび上がってくる。判明している描画ポイントと、作品が描かれた1926年(大正15)9月~10月のデイトスタンプを、10年後の1936年(昭和11)にドイツから輸入された航空カメラClick!によって撮影された空中写真に記載してみよう。



 さて、「制作メモ」に書かれていない作品群を考慮すれば、あるいは作品や画面写真が現存しないものを含めれば、ここに記録されているタイトルは1926年(大正15)の秋に制作されたほんの一部だけの、きわめて限定的な作品の覚え書きにすぎないことがわかる。換言すれば、「制作メモ」に書かれた作品点数のみを数え、「佐伯は『下落合風景』を30数点制作した」……という記述もまた誤りだと考えている。

◆写真上:画家たちが好んで描いた、下落合623番地の曾宮一念アトリエ前の現状。
◆写真中上は、1923年(大正12)に建てたばかりの自身のアトリエを描いた曾宮一念『夕日の路』(提供:江崎晴城様Click!)。は、曾宮一念アトリエ前の現状。は、1926~27年(大正15~昭和2)に降雪後の諏訪谷を描いた佐伯祐三『雪景色』。
◆写真中下は、1926年(大正15)夏に制作された佐伯祐三『セメントの坪(ヘイ)』とみられるプレ作品。同画面には10号と15号、40号の3作品があったとみられる。は、同作にも描かれているリニューアル前の高嶺邸。は、1928年(昭和3)5月の帰国後に描かれたとみられる清水多嘉示Click!『風景(仮)』Click!。曾宮アトリエは改築中のようであり、右手には諏訪谷に沿って築かれていた佐伯の『セメントの坪(ヘイ)』と同一デザインのコンクリート塀がとらえられている。
◆写真下:1936年(昭和11)の空中写真へ記す、佐伯祐三が歩く下落合の制作スタンプ。
掲載されている清水多嘉示の作品は、保存・監修/青山敏子様によります。