下落合464番地の中村彝Click!は、体調の悪化からキャンバスづくりが思うようにできなくなったり、制作用のキャンバスが足りなくなったり、あるいは急に習作を描きたくなったりすると、そこいらにある板片などを画布がわりにして絵を描いていた。それは、ときに菓子箱の裏やストーブにくべる薪がわりの廃材など、油絵の具がのる平面でさえあれば、なんでも活用していたようだ。
 そのような環境の中で、以前にも少し触れたが、アトリエのドアに絵を描いていた様子が伝えられている。そう証言しているのは、定期的に支援金をもって中村彝アトリエClick!を訪れていた、中村春二Click!の息子である中村秋一Click!だ。多くの画家たちは、今村繁三Click!などパトロンからの支援金を受け取りに、中村春二の自宅を毎月訪れていたが、中村彝は病状の悪化から中村秋一がそのつど、封筒を懐に入れては下落合のアトリエを訪ねていた。1942年(昭和17)に春鳥会から発行された「新美術」12月号収録の、中村秋一『中村彝のこと』から引用してみよう。
  
 父は彝のアトリエからスケッチ板ぐらゐの小品を持ち帰ることがあつた。面白いから貰つてきた、彝さんはそんなものをかけられては困るといつてゐたよ、と話し乍ら、板の表と裏に描かれた画を、どつちにしようか、と迷つてゐた。みんな描きかけの板片で、置いてをくとあの人はストーブに燻べちやふからね、と父は笑つてゐた。かういふ小品には商品としての価値はないかも知れないが、筆致の面白さがあるので、今でも私は好きであるが、惜しいことに悪い石油を使つてゐるので、ホワイトなどは鉛色に変色し、ボロボロ落ちてしまつて跡片もなくなつたものもかなりある。/彝さんは気が向くとどこへでも絵を描くひとで、菓子折の蓋へスケツチしたり、画室の扉へ女の顔が描いてあつたりする。画板が不足してゐたと見えて、裏表へ風景や静物を描いたものがかなりある。さうしたもので気に入つたものを父が取つて置いたらしいが、みんな破れたり、折れたりしてゐて、現存してゐるものは極めて尠い。
  
 この一文を読んで、すぐに思い浮かぶのが、中村彝の死去からおそらく1ヶ月前後に撮影された、アトリエ西側の壁面をとらえた写真だ。1925年(大正14)の『ATELIER(アトリエ)』2月号に掲載された写真には、画室から岡崎キイClick!の部屋、そして便所や勝手口まで通じる南西側のドアが写っている。そして、そのドアの表面には、なにやらペインティングされている“模様”が見てとれる。
 中村秋一が、アトリエのドアで見たのは「女の顔」だが、写真にとらえられたペインティングは「女の顔」には見えない。なにやら織物の模様のような絵柄で、1923年(大正12)の秋に渡仏中の清水多嘉示Click!あて、タペストリーClick!を購入して送るよう依頼する手紙を書いているので、実際に雑誌などで目にした織物などの模様を、ドアに模写したものなのかもしれない。
 このドアの向こう側について、鈴木良三Click!はこう書いている。1977年(昭和52)に中央公論美術出版から発刊された、鈴木良三『中村彝の周辺』より引用してみよう。
  
 アトリエの南西にドアがあり、一穴の便所と勝手口へ通ずるようになっていて、あらゆる来訪者はみなここから出入させられた。勝手口に三畳の小部屋があり、おばさんが起居していたが、この部屋で彝さんに聞かせられないような話向きはヒソヤカに取りかわされるのだ。この部屋の傍らに流しがあり、直ぐ裏木戸に出られるようになっていたので、彝さんの外出の時の人力車もここで待っているし、お医者も、画商も、友人もみんなここを通るのだった。木戸を入って左側に井戸があり、少しばかりの空地があって、おばさんはここでゴミを燃やしていた。
  



 この南西側のドアだが、写真で見るとおり、もうひとつの大きな特徴がある。それは、彝アトリエに設置されていた他のドアに比べ、このドアの幅がかなり狭いことだ。他のドアの幅が、700mm余の通常サイズなのに対し、この南西側のドアは600mm前後の幅にしか見えない。また、他のドアには中央にタテの枠が入るのに対し、なんらかのペインティングがほどこされた狭い幅のドアには、中央のタテ枠が存在しない。つまり、1923年(大正12)の関東大震災Click!以降に増築され彝アトリエに設置されていたドアの中では、かなり特殊な意匠のドアだったのではないかということだ。
 彝アトリエが、1929年(昭和4)より鈴木誠アトリエClick!になってからも、南西側のドアの幅は変更されていない。鈴木様に、アトリエ内を何度か拝見させていただいたとき、このドアの周辺は何枚かの写真に収めているが、画室と新たに設けられた“廊下”とを隔てるパーティションこそ設置されているものの、南西側のドアの幅は周囲のドア枠の意匠とともに、中村彝の時代とほとんど変わっていなかった。すなわち、アトリエ内ではこのドアだけが、特殊な仕様をしていたことになる。
 わたしが鈴木誠アトリエを拝見したとき、玄関から西へとつづく細い廊下の突き当りにあたるドアは、すでに撤去されて存在しなかった。ということは、鈴木誠Click!がアトリエの南西側に母家を増築したあと、アトリエの南東側へ玄関を設置した際、アトリエの南辺を幅60cmほどのパーティションで区切って、玄関から母屋へと抜ける“廊下”を新たに設置した時点で、このドアは取り外されている可能性が高い。あるいは、取り外されたドアは、新たに建設された母家のどこかに、流用されていたのかもしれない。たとえば、食堂や台所のドアとして……。



 中村秋一は毎月、支援金の配達をつづけていて、たまたま彝アトリエのドアに描かれた「女の顔」を発見しているが、彝アトリエに出入りしていた画家たちは、ドアに描かれた“なにか”を必ず目撃しているはずだ。すべての中村彝関連の資料に目を通しているわけではないので、いまだそれを発見できないでいるだけなのかもしれない。それは、たまたま彝アトリエを取材しに訪れた美術誌の記者や新聞記者が、どこかに何気なく書きとめている印象にすぎないのかもしれない。
 中村春二の息子・中村秋一は、パトロンからの支援金を彝アトリエへ定期的にとどけながら、画家という職業をうらやましく思っていたようだ。彼は、のちに大沼抱林の画塾に通いつつ、父親を通じて作品を中村彝に見せたところ、「筋がよい」といわれている。また、彝が1922年(大正11)に帝展審査員になって以降、無料パスを借りては帝展を観に出かけている。1942年(昭和17)発行の「新美術」12月号から、もう少し引用してみよう。
  
 当時は世話する方もまた世話される方も、それが当然であるやうに思はれてゐた時代だから、今日のやうな画家とパトロンとの関係はなく、ひどく恬淡としてゐた。父が負担したのはごく僅かで、多くは富豪からの出費を取次いでゐたに過ぎないが、直接手渡しする私の母は、催促されたりすると、美術家つてずゐ分変つた人たちだねと困りもし呆れてもゐたやうだつた。今ではみんな大家だから、こんな話は省いた方が礼にかなふと思ふが、当時ののんびりとした芸術三昧の生活は、ちよつと羨しいと思ふし、また、さうした生活がこれら優れた作品を生んだのであらう。
  


 中村秋一は同年の「新美術」に、中村彝の思い出を数回にわたって連載しているので、機会があればまた彝やアトリエのことを書いてみたい。また、彼は画家たちを支援するパトロンたちの様子も書きとめているので、こちらもいつかご紹介したいと思っている。

◆写真上:鈴木誠アトリエ時代の玄関から母家へと向かう、幅の狭い廊下の突き当りの南西ドアがあった跡で、600mm幅ほどのドアはすでに撤去されている。
◆写真中上は、1925年(大正14)の『ATELIER(アトリエ)』2月号に掲載された画室西側の壁面。は、南西ドアの拡大。は、玄関側から眺めた廊下の突き当り。
◆写真中下は、母屋の建設につづいて行われた玄関部の増築工事の写真。(提供:鈴木照子様) は、南西ドアにつづく廊下の腰高壁の様子。
◆写真下は、彝アトリエの時代から使われていた通常仕様のドア。幅は700mm余あり、中央にはタテ枠が入っている。は、中村彝が描きとめた戯画の一部。右上に描かれた印象的な人物は、明らかに野田半三Click!だろう。