以前、佐伯祐三Click!が描いた「踏切」Click!の画面で、踏切番の北側に建っている鉄道員宿舎あるいはアパートとみられる建物の壁面に、「中原工〇」Click!と書かれた看板について記事にしたことがある。以来、西巣鴨町(現・池袋地域)の字名である「中原」(立教大学の周辺)一帯、あるいは明治期以前に存在した高田村の字名である「中原」Click!一帯を探しつづけていたが、「中原工〇」に相当する工場を発見できなかった。
 特に、高田村(高田町)の雑司ヶ谷にふられた字名「中原」は、のちに「御堂杉」へ変更されているので、看板の工場が大正の早い時期に操業を開始していたとすれば、字名をとって「中原工〇」とされた可能性がある。そもそも、佐伯の画面では省略されている「中原工〇」の「〇」(佐伯は画面に「-」しか描いていない)には、どのような文字が入っていたのだろうか?
 1919年(大正8)に出版された『高田村誌』(高田村誌編纂所)の「工場案内」、あるいは巻末に掲載された工場広告を参照すると、当時は「〇〇工場」と名づけられた製造企業が圧倒的に多いことがわかる。「〇〇」には、事業主の苗字や地名が入るわけだが、佐伯が描いた看板の「中原」は地名であり、つづく文字には「工場」ないしは「工業」が入ると想定していた。そして、固有名詞(人名・地名など)+「工場」と名のつく製造業では、圧倒的に繊維関連あるいは製綿関連が多いこともわかった。
 たとえば、『高田村誌』に収録された工場の一部をご紹介すると、田岡工場(メリヤス)、曙工場(毛糸)、天田工場(繊維染色)、岩月工業(メリヤス・製綿)、鈴木工場(包帯)、高砂工場(メリヤス)、菅野工場(製綿・包帯)、山口工場(人絹)、加藤工場(染色)、ヤマト工場(羊毛)、大蔵工場(製綿・毛糸)、アカネ工場(絹織・人絹)、坂本工場(メリヤス)……etc.といった具合だ。つまり、「中原工場(業)」はおそらく繊維関連の製造業者であり、特に繊維工場が集中していた高田村(大字)雑司ヶ谷(字)中原(現・南池袋3丁目)、あるいは池袋駅東口の南側にあたる西巣鴨町(大字)池袋(字)蟹窪(現・南池袋2丁目)のあたりを集中的に探すことにした。
 わたしが高田村の雑司ヶ谷中原にこだわったのは、同地域に佐伯祐三の隣人である納三治Click!が経営する曙工場Click!があったからだ。曙工場は、高田町雑司ヶ谷御堂杉953番地で操業しており、佐伯が描く「踏切」をわたって左手(北)へ350mほど歩いたところにあった。上掲のように毛糸が専門の繊維工場であり、1927年(昭和2)の晩春ないしは初夏のころ、社主の納三治は下落合666番地、つまり佐伯アトリエの西南隣りに大きな西洋館Click!を建てて転居してきている。
 再度パリ行きを意図していた佐伯は、納三治の自邸や工場の事務室へ、「下落合風景」作品の“営業”に出かけているのかもしれない。曙工場の地番は、明治末から大正初期までは高田村雑司ヶ谷中原953番地だったはずで、その周辺に展開する繊維工場の中に、くだんの「中原工場」ないしは「中原工業」もあったのではないかと考えた。



 もうひとつ、わたしがこの地域にこだわったのは、山手線の車窓から見えるように掲げられた看板そのものの位置だ。踏切を渡って北へ歩けば、雑司ヶ谷中原(のち雑司ヶ谷御堂杉)へといたる位置に看板が掲げられているのであり、当然、その地域に「中原工場(業)」がある……と考えるのは、ごく自然に思えた。しかし、いくら雑司ヶ谷中原一帯をしらみつぶしに探してみても、各時代に「中原工場(業)」を発見することができなかった。苗字だけ採取されている可能性もあるので、念のため「中原」姓の家を探したが、それも見つけることができなかった。
 各種地図や住宅明細図などへの、採取漏れの可能性もありそうだとあきらめかけたころ、ひょんなところから答えが見つかった。それは、豊島区郷土資料館が発行する資料の中に、「中原工場」が眠っていたのだ。1988年(昭和63)に発行された「豊島区地域地図」の付録冊子をぼんやりと眺めていたとき、ふいに「中原工場」という文字が目に飛びこんできた。大正末ごろ、豊島区エリアに存在した企業や工場をリストアップした資料で、その中の工場一覧に「中原工場」が記録されていたのだ。製造していたのは、想像どおり繊維分野の「メリヤス」だった。
 そして、工場主の名前を見たとき、思わずため息が出てしまった。「中原」は地名ではなく、人名だったのだ。中原儀三郎が経営していた「中原工場」は、看板の位置が示唆する池袋駅に近い雑司ヶ谷中原(御堂杉)でも池袋中原でもなく、高田町高田四ツ家(四ツ谷)344番地(現・高田1丁目)で操業しており、まったくの方角ちがいだったのだ。目白通りを東へ向かい、学習院をすぎて千登世橋をわたった先、現在の「四つ家児童遊園」の向かいにある坂を南に下った坂下あたり、根生院の東隣りで中原工場は操業していた。


 
 さっそく、1926年(大正15)に作成された「高田町住宅明細図」を参照すると、確かに中原工場を見つけることができた。住宅街の中に、中原工場がポツンとあるような環境で、事業の規模としてはそれほど大きくはなかったようだ。豊島区郷土資料館の資料を見ると、社主の中原儀三郎のほか男子の工員が6人、女子工員が1人の全従業員7人という規模で、周囲の環境から想像すると家内制手工業のような製造現場が想定できる。ちなみに、中原工場の北隣りには早稲田大学教授であり、早大野球部の創設者で衆議院議員(社会民衆党)の安部磯雄Click!が住んでいた。
 中原工場がいつごろまで操業していたのかは不明だが、1936年(昭和11)に撮影された空中写真を見ると、周囲の大きめな屋敷街に囲まれた細長い屋根を確認できるようだ。また、1948年(昭和23)に撮影された空中写真には、空襲による中原工場の焼け跡とみられる、細長い敷地がハッキリと確認できる。空襲で全焼したまま、戦後に操業を再開できたかどうかはさだかでない。
 不可解に感じるのは、山手線沿いに「中原工場」の看板が掲げられていた位置だ。高田四ツ家(四ツ谷)に工場があるとすれば、その位置からして高田馬場駅か目白駅の近くに看板を設置するのが自然だろう。それが、なぜ池袋駅に近い位置に設置したのかが、いまひとつ腑に落ちないのだ。当時、繊維関連の中小工場が池袋駅東口の南西部(現・南池袋)に集中していたため、同地域の工場群の“一員”としてある種の“スケールメリット”をねらったものか、あるいは高田馬場駅の周辺では看板が多すぎて目立たず、目白駅の周辺では車窓から見える位置に看板を設置するスペースがなかった……と解釈することもできる。



 佐伯祐三がパリでそうだったように、あるいは連作「下落合風景」Click!の中の1作「富永醫院」Click!のように、もう少し看板の文字を正確かつていねいにひろって描いてくれていたなら、おそらく「中原工場」の下には「高田町四ツ家三四四番地」という所在地までが記載されていたのではないだろうか。そうすれば、これほど時間をかけて探す必要もなかったはずだ……と、最後にちょっとグチめいたことを書いてしめくくりたい。

◆写真上:中原工場が建っていた、高田町四ツ家344番地(現・高田1丁目)の現状。
◆写真中上は、1926年(大正15)ごろに制作された佐伯祐三『踏切』。は、「中原工場」看板の部分拡大。は、看板が設置されていたあたりの現状。
◆写真中下は、1926年(大正15)に作成された「高田町住宅明細図」にみる中原工場。は、高田村高田938番地にあった高田村を代表するメリヤス製造業の薗部工場。は、1919年(大正8)の『高田村誌』巻末に掲載された当時の工場広告。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる中原工場とその周辺。は、1948年(昭和23)の空中写真にみる同界隈で中原工場らしい焼け跡が見える。は、中原工場の北東側に隣接していた安部磯雄邸跡の現状。(中央の褐色屋根の家から手前にかけて)