東京美術学校で同窓だった里見勝蔵Click!と宮坂勝は、留学先のパリでも一緒にいることが多かったようだ。彼らの周囲には、小島善太郎Click!前田寛治Click!佐伯祐三Click!、中野和高、中山魏などが集っていた。帰国ののち、宮崎勝は1928年(昭和3)に開催された1930年協会Click!第3回展から、同協会の会員になっている。そして、同展に『郊外風景』と題する作品を出品した。このタイトルの「郊外」が、落合地域をさしている可能性は非常に高いと思われる。
 宮坂勝が、下落合727番地にアトリエをかまえたのは、東京美術学校の教師だった森田亀之助邸Click!の隣り、下落合630番地に里見勝蔵Click!がアトリエをかまえてから間もなくだったとみられる。1929年(昭和4)の美術年鑑には、すでに宮坂勝の住所は下落合727番地になっているので、おそらく前年あたりに故郷の信州・松本から下落合へやってきているのだろう。下落合727番地とは、ちょうど佐伯祐三が開発中の風景を描いた「曾宮さんの前」Click!、つまり曾宮一念アトリエClick!の真ん前に口を開けた、諏訪谷Click!の谷戸にふられた地番だ。
 里見勝蔵に家探しを頼んだか、あるいは美校の恩師だった森田亀之助の紹介かは不明だが、下落合630番地の里見アトリエから南へ120mほど、曾宮アトリエにいたってはすぐ目の前の谷間に宮坂アトリエがあったことになる。当時の里見勝蔵と宮坂勝は、小島善太郎によればケンカするほど仲がいい関係だったようで、諏訪谷のアトリエは里見の紹介だったかもしれない。代々幡町代々木山谷160番地にあった1930年協会洋画研究所Click!で、おおぜいの研究生たちを前にふたりが大ゲンカをして、授業をメチャクチャにしたことがあった。
 そう証言するのは、インタビューを受けた小島善太郎だ。1968年(昭和43)に発行された「三彩」8月号の、「対談“独立”前後」から引用してみよう。
  
 あれはたしか木下君の親類の工藤君のアトリエで、代々木でしたよ。研究生が押すな押すなの盛況、狭い所へ五十人ちかくも入りこんで、お互いに絵の具だらけの有さま、その上、先生里見と宮坂勝が、画論の相違で、生徒を放ったらかして大喧嘩するというような騒ぎ、まったく無茶苦茶でしたが、活気はありましたなあ。
  
 「木下君」は1930年協会の木下孝則Click!、「工藤君」は工藤信太郎のことだ。里見と宮坂は激昂して、お互い筆で絵の具をなすり合ったのかもしれない。w
 さて、1930年協会に参加する少し前、1927年(昭和2)9月に描かれた宮坂勝の作品に『初秋郊外』がある。(冒頭写真) いまだ宮坂が下落合にやってくる以前、長野県の松本で美術教師をしていた時代の作品だ。だが、清水多嘉示Click!が学校の夏休みなどを利用して、同じ長野県から兄事していた下落合の中村彝Click!のアトリエを訪ね、ついでに付近の風景(たとえば1922年の『下落合風景』Click!など)を写生して展覧会に備えたように、宮坂勝もまた1930年協会の画家たちが住む下落合を訪れては、付近の郊外風景を写生していた可能性がきわめて高いとみられる。
 つまり、宮坂の『初秋郊外』は落合地域のどこかを写生したのではないか?……というのが、きょうの作品画面をめぐるテーマだ。

 

 落合地域の目白崖線は、画面に描かれたような丘が随所に連なっているが、このような風景や地形の場所は1927年(昭和2)現在、どこにも存在しない。光線は、真上のやや左寄りから射しているようで、建物の陰影や「初秋」という時節的な画題からいっても画面は南向きか、それに近い方角を向いて描いたと思われる。手前は畑地か、整備されたばかりの宅地のようで、右手には新築らしい2階家が2軒並んで建っている。そこから小崖があって少し落ちこんでいるように見える。
 小崖の下には、二間か三間の道路があるのだろう、道沿いには家々が建ち並び、中でも特徴的なのは左手に描かれた、屋根に丸いペディメントを備えた商店建築だ。アーチの中には、屋号か家紋、トレードマークなどが刻まれているのだろう。商店の右手には、蔵が付属しているように見えるので、ひょっとすると質屋か銀行、あるいは貴重品を扱う金工細工店や宝飾店かもしれない。家々の向こうには樹々が繁り、右手には小高い丘が描かれている。この丘の斜面は急で、ほとんどバッケ(崖地)Click!に近いような地形をしている。いかにも、目白崖線のような風情なのだが、1927年(昭和2)の時点で、このような風景の場所をわたしは知らない。
 最初は上落合の西端、つまり急に丘が立ち上がる上高田との境界あたりの風景を疑った。明治から大正にかけ、寺々が東京市街地から移転してきて寺町Click!を形成した、上高田4丁目の小高い丘だ。だが、多彩な地図や空中写真を参照しても、1938年(昭和13)の時点でさえ牧成社牧場Click!が拡がり、家々が数えるほどしかないエリアで、このような風景が1927年(昭和2)現在で見られたとは思えない。ましてや、本格的な商店建築が建設されるほど、周囲に顧客がいたとも思えないのだ。もう少し北側に寄って、早くから拓けた三輪(みのわ)商店街あたりから眺めた風景に比定しようとしても、三輪地域は妙正寺川の河川敷にほど近く、このような地形に見える場所は存在しない。
 


 そこで、コンクリート造りとみられるペディメントの商店をジッと眺めていて、ハタと気がついた。この通りは上落合の南辺、小滝橋つづきの早稲田通り(旧・昭和通り)ではないか。小滝橋から伸びてくる商店街なら、このような“豪華”な造りの商店があってもおかしくない。そこで思い出したのが、上落合郷土史研究会が編纂した冊子『昔ばなし』に登場する、「鶏鳴坂」Click!をめぐる記録にあった上落合が地元の方の文章だ。小滝橋から上落合側への道(現・早稲田通り)はやや上り坂となるが、昭和初期までは切通し状の三間道路がつづいていた……という証言だ。
 すなわち、八幡耕地(上落合側)と小瀧(中野側)の丘陵を掘削して、この街道(現・早稲田通り)は敷設されているのだ。それが整地され、平坦にならされたのは1935年(昭和10)前後のことだった。大正の中期までは、小滝橋の橋詰めに茶店しかなかったものが、大正末になると山手線の高田馬場駅から西へ延びはじめた商店街Click!は、小滝橋をわたると現在の早稲田通りへと連結していく。ペディメントを備えた商店は、そのうちの1軒ではないだろうか。そして、右手に見える急斜面の丘は、拙サイトの読者の方々ならピンときていると思うが、花圃遊園地の「華洲園」Click!が廃園となり、高級住宅街が建設されている最中の小滝台Click!の丘だ。
 宮坂勝がイーゼルを立てている背後は、神田川や妙正寺川が流れる北東側へ向けて徐々に地形が低くなり、画面の左手120mほどのところには、小滝橋の架かる神田上水(現・神田川)が流れ、小崖の下の道を右へ500mほどたどれば、翌1928年(昭和3)には「うなぎ・源氏」が創業する鶏鳴坂の上へと出ることができる。描画ポイントは現在、切通しの北側にあたる画面手前の丘陵の名残りがすべて平地化され、都バスの小滝橋車庫になっている敷地のすぐ西側、上落合193~194番地(現・上落合1丁目)あたりだろうと推定する。
 画家たちが集まり、あちこちにアトリエを建設しはじめた大正中期より、当然ながら落合地域のあちこちでは、イーゼルを立てて郊外風景を写生をする画家たちの姿が見られた。昭和初期に下落合を訪れた宮坂勝も、そんな画家たちの写生する姿に刺激されたものか、落合地域をあちこち歩きまわり、『初秋郊外』を写した上落合の描画ポイントを発見しているのかもしれない。そして、翌年には松本の教師の職を辞し、画家たちのアトリエが集中する下落合へ転居してきているのではないだろうか。




 『初秋郊外』に描かれた風景は、いま描画ポイントと思われる位置に立ち、小滝台住宅地(旧・華洲園)の丘を眺めようとしても、早稲田通り沿いに建設された高層マンションやビルに遮られ、まったく見通せなくなっている。宮坂勝は、本作品を1930年協会展に出品してはいないが、同協会第3回展に出品された『郊外風景』(1928年)も、ひょっとすると前年に描いた『初秋郊外』のバリエーション作品なのかもしれない。

◆写真上:サインによれば、1927年(昭和2)9月に制作された宮坂勝『初秋郊外』。
◆写真中上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合727番地界隈で諏訪谷の谷全体にふられた地番だ。は、宮坂勝のポートレート()と1919年(大正8)の東京美術学校卒制の『自画像』()。は、大正末に拓かれた諏訪谷に建つ家々の現状。
◆写真中下上左は、宮坂勝『初秋風景』が紹介された1928年(昭和3)の「みづゑ」8月号。上右は、アーチ状のペディメントが特徴的な商店建築。は、小滝橋の南側にある豊多摩病院Click!から北西を向いた濱田煕Click!の記憶画『戸山ヶ原の西方を見る』(1934年9月)で、背後に見える丘の連なりが旧・華洲園(小滝台住宅地)の丘。
◆写真下は、1925年(大正14)作成(1928年補正)の1/5,000地形図(上)と、同年の1/10,000地形図(下)にみる描画ポイント。は、タイトルと制作年が不詳の宮坂勝の風景画だが、表現の近似性から『初秋郊外』と同じごろの作品と思われる。は、小滝橋へと下る上落合界隈の現状。『初秋郊外』は左手(北側)の描画ポイントから、街道(現・早稲田通り)をはさみ右手の小滝台方面を向いて描かれているとみられる。