喜多條忠が、岸上大作Click!の1960年(昭和35)12月に自裁する直前まで綴っていた絶筆『ぼくのためのノート』Click!を意識し、日記風のノートをつけていたのを知ったのは、そんな昔のことではない。そこには、日々の所感や詩作が書きつらねてあり、落合地域のすぐ近くに展開していた情景も記録されている。彼の学生時代の「ノート」をわたしが読んだのは、それが書かれてから20年以上がたった1990年(平成2)ごろのことだ。
 たとえば、1967年(昭和42)のノートにはこんな様子が書かれている。1974年(昭和49)に新書館から出版された『神田川』所収の、「川」という詩から引用してみよう。
  
 夜になって/「大正製薬」の煙突についているネオンが消え
 アパートの下を流れる神田川の水が/白い泡に変わってゆく
 僕の魂が肉体を捨てて飛び去ったときにも
 太平洋の上を漂う僕の半裸体からも
 こんなに白い泡が/流水のようにして浮かんでゆくのだろう
  
 書かれている神田川は、前年に旧・神田上水から名前が「神田川」に変わったばかりのころ、汚濁がピークに達しようとしていた60年代後半の様子だ。下水口から流れこむ生活排水に含まれた合成洗剤で、堰堤Click!が設置された落差のある川面では一面に白い泡が立ち、風が強い日には泡が遠くまで吹き飛ばされていた時代だ。
 この詩を書いている部屋は、喜多條忠自身のアパートではない。同じ大学へ通う「池間みち子」が住んでいた、3畳ひと間の小さな部屋だ。そのアパートからは、神田川をはさんで北西約200mのところに、大正製薬Click!工場の煙突が見えていた。高田馬場駅のすぐ近く、戸田平橋から神田川の南岸を東へ85mほど入り、材木店の2軒隣りに建っていた赤いトタン屋根のアパートだった。住所は戸塚町1丁目129番地、それがいまの高田馬場2丁目11番地に変わるのは1974年(昭和49)になってからのことだ。
 現在は川沿いに遊歩道が設置され、神田川の南岸と建物とは4mほど離れているが、当時はアパート北側の外壁が川面に面して建っていた。この赤い屋根のアパートは、1992年(平成4)まで残っていたのが確認できる。喜多條忠は学生時代、自分のアパートへはあまり帰らず、彼女の下宿に入りびたってすごすことが多かったようだ。
 つづけて、同書の詩「僕たちの夕食」の一部を引用してみよう。
  
 あなたがドライヤーで乾かす/豊かな髪の黒い流れののように
 僕のなかで波形模様が揺れる/トイレの小窓から見える線路の上を
 長い貨物列車が通って行く/もうあの草色の山手線は車庫の中で
 疲れた足をさすって眠っているのだ/で 僕たちの食事はこれから始まる
 ワサビノリと即席アラビアン焼ソバ/ハリハリ漬けとしその実漬け
 煮干をボリボリとかじったあと/背骨をねじらせたその小さな硬い魚の頭が
 ミイラになった蛇の頭そっくりなのに気付いて
 あわてて手に持っていたものまで罐のなかにしまう
  



 「みち子」のアパートにあった共同トイレは、おそらく西に小窓が切ってあり、山手線の線路土手がよく見えたのだろう。終電のあと、山手線を貨物列車が通過する深夜の情景だ。何度も「僕」が登場するけれど、わたしの学生時代に「僕」Click!などといったら、周囲から「おまえはいつまで僕ちゃんなんだ?」と、小中学生を見るような眼差しを向けられただろう。もっとも、喜多條忠は大阪人なので、「僕」は大人も普通につかう一人称代名詞なのかもしれない。(ただし、大人がつかう「僕」に違和感をおぼえる大阪人もいるので、大阪市内の地域方言か慣用語なのかもしれない)
 わたしが高校生のころ、1973年(昭和48)に喜多條忠が作詩した『神田川』Click!は、しょっちゅうラジオから流れていたけれど、漠然と大学の下宿が多かった早稲田から面影橋あたりの情景を唄ったものだろうと想像していた。だが、これほど落合地域に近い場所で紡がれた「物語」だとは思ってもみなかった。下落合1丁目の町境から「みち子」のアパートまで、わずか400mほどしか離れていない。高い建物がなかった当時、下落合の日立目白クラブClick!(旧・学習院昭和寮Click!)あたりの丘上からは、赤い屋根の「みち子」のアパートがよく見えていたと思われる。
 もっとも、当時のわたしは一連の“フォークソング”と呼ばれた、暗くてみじめったらしく、うしろ向きでウジウジしている歌全般がキライだったので(いまでも苦手だが)、ラジオから『神田川』とかが流れてくると選局ダイヤルを変えていた憶えがある。『神田川』の記念歌碑は、この曲を作詩したときに喜多條忠が住んでいた、東中野の神田川沿いの公園に建立されているようだが、まだ一度も出かけたことがない。
 再び同書より、1967年(昭和42)3月5日の日記を少し長いが引用してみよう。



  
 今のみち子の置かれた位置として、もっとも重要にして深い、そして身近な問題に真剣に取りくんでいくべき時点に立っているのではないかということ、僕と彼女との今までの了解点として、羽田闘争のときには暴徒とよんだ人間に、佐世保闘争のときは心を動かされたものがあるとみち子自身が僕に書いてきたとき、そんな調子のよい世論便乗的な態度がまず批判されるべきであること、そして僕たちは意識の自覚の程度によってそれなりの努力を日常においてやっていく、それは読書することによっての精神の少しずつの変革でもよいし、とにかく真剣にやっていくということが確認されていたはずであること、それがスキーをやり、夜は連日麻雀台をかこんだという楽しい旅行のあと、今度はすぐに夏の旅行のために、帰って来ている僕のことをも無視してアルバイトをやる(中略)という発想、そこには二十五日に僕がはじめて彼女を途中で追い返したときの何らの反省も含まれていないであろうことを指摘した。/もっとも僕は今、自分でもかなり勉強してるし、いかにも前に書いたこれまでの総括を踏まえたことをやっているからこそ、彼女にこんな厳しい、それこそ若干スターリニズム的な押しつけがましいことが言えるのだが、これも今の彼女の情況を彼女自身が省みてもらいたいがために言ったのである。
  
 20歳前の、なにをしても楽しいし、なにを話しても気分がウキウキするような女子に、こんな「若干スターリニズム的」な確認や総括だらけの説教をしても、どれほどの意味があるのだろうか。(爆!) こんな日記を読んだら、いまの若い子たちはどのような感想をもつのだろう。いわく、「ってゆ~か、意味わかんないし。みち子さんに、ボクを置いてどっかへフラフラ遊びに出かけないで、いつもそばにいてほしいって、素直に頼めばいいだけの話じゃん!」……と、ただそれだけのことかもしれない。
 『神田川』の世界からほぼ50年、神田川は大きな変貌をとげてアユが遡上Click!し、タモロコやオイカワ、マハゼなどが回遊して、夏休みには小学生たちが川で水遊びClick!のできる、キンギョが棲めるまでの水質に改善された。神田川(千代田城外濠)から分岐する日本橋川では、サケの遡上も確認されている。下水の流入が100%なくなり、落合水再生センターの薬品を使わない浄水技術で、神田川の多種多様な魚やトンボなど昆虫の幼虫たちが甦った。いまでも単体では見かけるが、夕暮れに琥珀色の羽根が美しいギンヤンマの群れがもどる日も近いのかもしれない。
 いや、上落合の落合水再生センターは神田川にとどまらず、渋谷川や古川、目黒川においても、川を清浄化する実質上の給水源であり“源流”となっている。


 
 1970年(昭和45)前後の神田川、どこかうらぶれた雰囲気が漂うドブ川のイメージは、すっかり払拭された。だが、それと同時に詩『神田川』に描かれた、ささやかなギターの音色が似合いそうなセピア色の世界も、常に不吉な翳りのある怖かった「あなたのやさしさ」もまた、「みち子」とともにどこかへ消えてしまった。

◆写真上:澄んだ神田川の水面には、ときどき魚影や水生生物の姿が横切る。
◆写真中上は、日記に書かれた時代の4年前にあたる1963年(昭和38)に撮影された空中写真にみる「みち子」のアパート。は、1975年(昭和50)の同所で赤い屋根が新しく葺きかえられているようだ。は、1974年(昭和49)出版の喜多條忠『神田川』(新書館)に掲載された、いかにも1970年代の匂いがする林静一の挿画イラスト。
◆写真中下は、1974年(昭和49)の「住所表記新旧対照案内図」にみる戸塚町1丁目129番地のアパート。は、神高橋の下から眺めた下流の高塚橋と戸田平橋。「みち子」のアパートは、戸田平橋の向こう側にあたる。は、同書の林静一挿画。
◆写真下は、春爛漫の神田川。は、羽化を観察するのか神田川でトンボのヤゴを採集する子供たち。は、喜多條忠『神田川』(1974年/)と当時の著者()。
おまけ
1990年代まで残っていたとみられる、戸塚町1丁目129番地(現・高田馬場2丁目)の「みち子」のアパート跡。(左手マンション) 突き当りは、川沿いの遊歩道と神田川。