北辰・北斗七星=妙見神信仰における「星祭」Click!、つまり神事と例祭の中で、その祖型をよくとどめているケースとしては、岐阜県郡上郡大和町(現・郡上市大和町)にある、本来は千葉氏の明建社(妙見社)で行われている「星祭」が挙げられる。
 その祭りは、本祭である「神事」「神輿渡御」「野祭り」の3部と、祭礼後の直会(無礼講)から構成されており、それぞれの行事は次のような内容となっている。川村優・編『房総史研究』(名著出版/1982年)所収の伊藤一男『東国妙見信仰の地方的伝播』をベースに、その概略をわたしなりにまとめてみよう。なお、原文からの引用ではなく、おおざっぱに概要をまとめたものなので文責はわたしにある。
  
 ◆神事
 例祭日の早朝、奉仕者は栗栖川の渓谷で禊(みそぎ)をし、心身を清浄にする。神事は、当日の正午ごろから3時ごろまで3時間ほど行われる。
 ・笛と太鼓の「妙見囃子」に合わせ、供物控棚に置かれた供物を神前に次々と供える。
  神前での儀式が終了すると同時に、供饌したものはすべて撤饌する。
 ・社の神主が開式の祝詞を奏上し、祭礼に参加する関係者一同が神前へ玉串を奉納して
  神前の儀は終わる。
 ・神主は本殿に移って神移りの祝詞を奏上し、本殿内の神前に供えた幣をささげて
  拝殿へともどり、拝殿にあらかじめ安置されていた神輿へ神を移す。
  
 以上が、「神事」の内容だ。相馬家の神職担当あるいは奉仕者は、相馬邸内に湧き出る泉(おとめ山公園の湧水源)で、神事の早朝には身を清浄化するために禊(みそぎ)を行なったのだろうか。また、神前の儀については福島県の相馬家にかかわる社から、神職を招いて神事を挙行したものだろうか。相馬邸内の妙見社には、神輿蔵や神楽殿などが付属していたので、神輿はあらかじめ早朝に太素神社の拝殿(前)へと運ばれていただろう。
  
 ◆神輿渡御
 ひととおりの神事が終わると、祭礼に参加する関係者一同で神輿を担ぎ、拝殿・本殿の周囲を3回まわったあと明建社の竪大門および横大門を抜けて、約300m先にあるスギの大樹(「帰りスギ」と呼ばれている)まで往復する。その間、紋張獅子と篠葉踊り子と呼ばれる役柄の少年たちが、明建社の表参道を走りまわって乱舞する。
 神輿渡御に参加するのは、先導(露払)×1名、幣持×3名、弓取×2名、神輿担手×4名、音頭(呼び役)×1名、杵振り×1名、笛吹(太笛)×1名、太鼓×3名(打ち手×1名、担ぎ手×2名)、鼻高(天狗面)×1名、獅子×4名、給仕×2名(供物や神酒、菓子類の配布者)の、おもに白麻狩衣を着用した以上19名が近在を練り歩く。この行列の後方には、篠葉踊り子×少年8名がつづき、呼び役が「神の妙見なる竹の林、ボーンボ」と叫ぶと、踊り子がいっせいに「サーンヨシ、ボーンボ」と唱和して応え、参道をあちこち走りまわる。
  




 以上が、神輿渡御の概略だ。「星祭」は、もともと武家の祭礼だったはずだが、おそらく中世以降に微妙な変容をしているものか、どこか「農」=五穀豊穣を祈念するような装いや雰囲気がプラスされているようにも感じられる。
 相馬邸内の「星祭」では、これほど大人数の神輿渡御が可能だったかどうかは不明だが、ひょっとすると相馬氏あるいは千葉氏ゆかりの地域から、専門職(神職)や専門要員を集めては催していたのかもしれない。特に神事をつかさどる神主は、福島県相馬市のいずれかの社から、祭礼前に招かれていた可能性がある。例祭の当日、相馬邸のご近所にお住まいだった方で、かなりテンポが速い「妙見囃子」(どこか江戸町内の祭囃子に近似している)、あるいは神輿渡御の囃子(おもに太鼓の音が響いただろう)を記憶している方はおられるだろうか。
  
 ◆野祭り
 近在の神輿渡御が一段落すると、行列一行は神輿を下して竪大門にある鳥居内の広場で休息し、やがて野祭りがスタートする。そして、「神前の舞」「杵振りの舞」「獅子起こしの舞」の順序で田楽が神輿の神前に奉納される。
 「神前の舞」は、妙見神が乗る神輿に向かい、神輿の担ぎ手4名がおのおのビンザサラを手に踊る奉納舞いだ。つづいて「杵振りの舞」は、茶色の頬かぶりをした演者が杵をかついで現われ、神前で餅をつくような所作をして杵を振りふり踊りを奉納する。最後の「獅子起こしの舞」は、鼻高(天狗)が白扇を手に獅子を起こす舞いを奉納する。
 これらの奉納舞いとほぼ同時に、明建社へ参詣にきた近在の人々へ、神酒や饌米、篠ちまきなどがいっせいに配られる。田楽が終了し、供饌をあらたか配り終えると野祭りは終了し、再び神輿を中心に行列を整えて拝殿へともどる。そして、神輿の中に収められた幣(妙見神が乗り移っている)を本殿の神前へもどして、すべての例祭が終了する。
  




 つまり、相馬邸の正門(黒門)を開け放ち、神輿渡御を終えた神輿が安置されていた場所(玄関横の広場だとみられる)で、神酒や食事、果物、菓子類がふるまわれたのは、おそらく3つめの「野祭り」の段階だったことが想定できる。
 「星祭」の重要な行事である「神事」と「神輿渡御」は、おそらく相馬家の家族Click!や姻戚(神職含む)、あるいは一族に近しい人たちで早めに実施し、いまだ祭礼の当日、ないしは翌日に最後の「野祭り」を行なうために正門(黒門)を開放し、近所の人々に丸1日を通じて酒や菓子類をふるまっていたのだろう。
 郡上市大和町の明建社では、「野祭り」のあとには「直会」(無礼講)が行なわれ、「星祭」に参加したすべてのスタッフ(奉仕者や関係者)が祭礼の仕事から解放され、立場や年齢のちがい(昔は身分のちがいだったろう)を意識することなく、自由に酒を飲みご馳走を食べながらの談笑が許されて、丸1日を解斎の宴会に費やすという。
 岐阜県郡上郡の明建社「星祭」における奉納舞いは、中世田楽の面影を色濃く伝える舞いとして、民俗学的にみても非常に貴重な伝統行事のようだ。はたして相馬邸内では、1920年(大正9)に焼失した神楽殿Click!では、どのような奉納舞いが行なわれていたのだろうか。また、神楽殿の焼失後は、「神輿渡御」を終えて広場に安置された神輿の前で舞われていたのかもしれない。ちなみに、岐阜県郡上郡の明建社でふるまわれているお神酒は白い濁り酒のようだが、下落合の相馬邸でふるまわれた神酒は、おそらく福島で醸造された品質のよい清酒だったのではないだろうか。



 
 下落合の太素神社でも、祭りの主宰者であり将門相馬家の当主だった相馬孟胤Click!自身が、祭りの日には樽から柄杓で酒をくんで参詣者ひとりひとりに配っていたという証言が残っているが、「星祭」の直会(無礼講)を受け継いだ行事ではないかと想定している。
                                 <了>

◆写真上:御留山の谷戸に残る湧水源だが、このところ湧水量が減りつづけている。
◆写真中上は、大正初期に撮影された相馬邸庭園の渓流。以下、相馬邸内の写真は『相馬家邸宅写真帖』(相馬小高神社宮司・相馬胤道様蔵)より。は、2葉ともおとめ山公園の日本庭園に保存された北斗七星礎石。は、御留山湧水池のひとつ。
◆写真中下は、1915年(大正4)の邸竣工時に撮影されたとみられる相馬邸庭園の湧水流(上)と現状(下)。は、岐阜県郡上市大和町にある明建社の拝殿。は、下落合(1丁目)310番地の相馬邸で暮らした人々。前列の左から相馬沢子、相馬碩子、相馬順胤、相馬邦子(相馬孟胤夫人)、後列左から相馬正胤、相馬孟胤、相馬広胤。
◆写真下は、上から下へ明建社の祭礼の様子で「神輿渡御」「神前の舞」「杵振りの舞」。は、1982年(昭和52)に出版された川村優・編『房総史研究』(名著出版)と、収録された伊藤一男の論文『東国妙見信仰の地方的伝播』。