沖野岩三郎Click!が青年時代を送った明治末、キリスト教に限らず宗教が空想・夢想する理想的な世界(社会)と、それを実現する可能性のある社会主義思想とは、きわめて近しい関係にあった。キリスト者の場合は、誰からともなくキリスト教社会主義と名づけられた思想に還流し、さまざまな福祉事業や福利厚生事業を起ち上げている。
 同様に、新時代の仏教も例外ではなかった。こちらでは、佐伯祐三Click!の兄がイギリスで学んで帰ったセツルメント運動(イギリスにおける社会主義運動の一形態)をご紹介しているが、佐伯祐正Click!は大阪にある浄土真宗本願寺派Click!光徳寺Click!で大がかりな地域的実践を試みており、その思想や活動はさっそく特高Click!からマークされている。また、佐伯家と同じ宗派で下落合753番地に住んだ九条武子Click!の多彩な事業も、それら思想潮流の影響を少なからず受けていただろう。
 彼らの活動に共通するのは、簡単にいえば死後世界で救済される極楽浄土と奈落(または天国と地獄)について、信者に観念的で通りいっぺんの説教をするだけでなく、現世においてさえ少しでも救済されるべき施策へ、主体的に取り組むのが宗教者としての責務であり、その実践を通じてこそ宗教の存在理由や、より多くの信者を獲得していく具体的な道筋でもある……というような考えにもとづくものだった。むき出しの資本主義社会では、福祉分野を中心として多種多様な社会課題が山積していた時代だった。
 確かに、口先ばかりの説教でなにもしようとしない宗教者が、機会さえあれば布施や喜捨や寄付ばかりを求める没主体的な姿勢に比べれば、上記のような宗教者の姿勢は少なからず周囲へ説得力をもって受け入れられただろう。1918年(大正7)に、当時は教会牧師だった沖野岩三郎は、雑誌「雄辨」11月号(講談社)収録の『日本基督教会の新人と其事業』の中で、次のように書いている。
  
 基督教の生命は社会問題と直接の関係を有するにある。霊魂不滅、天国地獄、復活、さう云ふ問題は基督教での大問題ではない。今日では其様な問題は神学生達にすら軽視されてゐる。基督教の溌溂たる生命は今少し手近にある。現代の社会と個人の霊性との関係が大問題である。社会問題、人生問題といふやうな事が先ず解決されて後に永生未来の問題は自ら決せられるのである。/然るに今の基督教会は殆ど社会問題と関係が無くなつてゐる。嘗て賀川豊彦が『貧民心理の研究』といふ大著をなした時、有力なる基督教の新聞が『斯様に社会を醜悪に視ないでも善ささうなものだ。』といふ意味の批評を加へてゐた。彼等は高踏的な霊魂論に祟られて社会の悲しき現象に驚愕する事すら出来ない程に非社会的になつてゐる。
  
 沖野岩三郎は、明治学院を中心とした神学生たちを見ていて、そのような想いに強くとらわれたのだろうし、そもそもキリスト教が活力(沖野は「生命力」という言葉を用いている)を失いかけているのは、社会の問題や課題から目をそむけつづけ、実社会と宗教とが大きく乖離してしまっているのが原因と考えたのだろう。同様に、宗教は異なるが仏教の佐伯祐正Click!もまた、同じことを考えていたにちがいない。なんのための宗旨なのか、誰のための宗教(思想)なのか、常に自問自答を繰り返していたと思われる。
 沖野岩三郎は、牧師を辞めて下落合に転居してきてからも、この考え方は終生変わらなかったし、佐伯祐正もまた、1945年(昭和20)6月1日の大阪大空襲によるケガがもとで死去するまで変わらなかっただろう。雑誌「雄辨」11月号と同年の1918年(大正7)に、沖野岩三郎は『煉瓦の雨』(福永書店)を出版するが、あとがきには岡田哲蔵や賀川豊彦Click!西村伊作Click!、三並良、宮本憲吉、加藤一夫、内ヶ崎作三郎、与謝野鉄幹Click!与謝野晶子Click!生田長江Click!佐藤春夫Click!など、当時の哲学者や文学者、宗教者、教育家たちが文章を寄せている。もっとも、沖野岩三郎と同郷の佐藤春夫は警察の目を気にしてか、および腰で無理やり催促されて書かされたという体(てい)を終始装っているが。



 この作品集では、「大逆事件」で処刑された大石誠之助は「大星」という姓になっており(まるで『仮名手本忠臣蔵』Click!の大星由良助のように)、「大星」(通称:ダダさん)は行方不明になり突然骨壺となって帰ってくるという経緯になっている。「大逆事件」から、わずか6年余しかたっていないこの時期、これが警察当局の検閲をくぐりぬけて出版できる、せいいっぱいの表現だったのだろう。
 沖野は、同年の「雄辨」11月号とほぼ同じことを、1920年(大正9)に民衆文化協会出版部から刊行された沖野岩三郎『地に物書く人』でも、「今日の基督教は社会問題と基督教とに就いて今少しく研究の地歩を進めて行かなければ基督教といふものは単なる霊魂問題の説教をするものとなつて了ふ恐れがある」と、繰り返し社会課題の解決とキリスト教の宗旨あるいは使命とをセットにして語っている。彼の場合、社会課題の具体的かつリアルな解決策のひとつとして注目した思想が、新宮教会の牧師時代に親しく交流していた、キリスト教徒で医師の大石誠之助らグループが唱える社会主義だった。
 明治期を通じて、近代精神の形成に大きく影響を与えたのは、宗教としてのキリスト教の浸透とは別に、その宗旨にみられる西洋的なヒューマニズムの拡がりだし、また社会主義思想(およびアナキズム)の拡大もまた、民衆を視座にすえた社会変革の思想という意味では、のちの大正デモクラシーを形成しそれを支えるベースを築いた重要なファクターであることはまちがいなく、片や宗教のキリスト教と片や政治思想の社会主義(またはアナキズム)は、今日では水と油のように思われがちだけれど、明治期には双方が互いに敏感かつ刺激的に影響しあい、日本における近代精神の形成へ相乗作用のように少なからず寄与していった……と書いては過言だろうか。
 その象徴的な人物が、新宮地域においては医師で社会主義者(またはアナキスト)だった大石誠之助であり、新宮教会の牧師であり大石から強い影響を受けた沖野岩三郎だったのだろう。沖野は1908年(明治41)8月に、大石誠之助邸に1ヶ月ほど滞在した幸徳秋水にも一度会っているが、トルストイ主義Click!をめぐって沖野と秋水は激論を戦わせることとなってしまい、どうやらふたりの議論は並行線のまま折りあうことなく別れたようだ。



 以前の記事で、沖野岩三郎が「大逆事件」の連座をまぬがれたのは、大石誠之助が自邸で催した新年会に出席しなかったからだと書いた。酒が1滴も飲めない下戸の沖野は、そこで行われたとされる検察がデッチ上げた「天皇暗殺」の「謀議」というシナリオの舞台へ、登場しなかったがために大逆罪に問われることはまぬがれている。だがもうひとつ、大石誠之助の近くにいたということで検挙されたとはいえ、沖野岩三郎が比較的に短期間で釈放されているのは、家宅捜査で押収するものがなかったことにも起因している。このとき、自身の重要な創作物を友人に貸し、家内にはなかったことも幸運だったろう。
 1989年(平成元)に出版された、野口存彌『沖野岩三郎』(踏青社)から引用してみよう。
  
 つづいて(家宅)捜索がはじまるが、捜査官が本と手紙類に関しては徹底的に調査したことが判る。本はどの本も一頁ずつ全頁めくっている。とくに、はじめに入ってきた検事は「最初から終まで書籍と手紙とを必死に調べて居た」と記されている。しかし、押収するようなものはなにひとつとして出てこなかった。/この、押収するようなものはなにもなかったという事実が沖野が事件への連座をまぬかれるうえで大きく作用したと考えなければならない。大石(誠之助)の周辺にいる急進的な青年とも頻繁に往来があって、もし沖野の家から彼らの出した意味ありげな内容の葉書が一通出てきただけでも、検事によって思いもよらぬ解釈がくだされ、沖野自身が困難な立場に追いこまれたことが十分想像できるのである。(カッコ内引用者註)
  
 実は、家宅捜査で押収されることになっていたはずのモノを、沖野岩三郎は大石誠之助からプレゼントされて所持していた。当時は、出版と同時に即日発禁書とされていた、現在は岩波文庫に収録されている、1909年(明治42)に平民社から出版されたクロポトキン・著/幸徳秋水・訳『麺麭の略取』が書棚に並んでいるはずだった。
 だが、沖野はたまたま同書を知りあいの小児科医へあげてしまっていた。もし、1年前に友人の医師へ同書をプレゼントせず、そのまま書棚に並べた状態であったなら、彼は逮捕と同時に行われた家宅捜査後ちょっとやそっとでは出てこれず、ヘタをすれば検事が描いた謀略のシナリオに組み入れられ、「大逆事件」の構成員のひとりとして死刑または無期懲役の判決を受けていたかもしれない可能性に、のちになって気づくことになる。
 また、沖野から『麺麭の略取』をもらった小児科医も、医師仲間である大石誠之助とは交流があったため、「大逆事件」で大石誠之助が刑死したあと家宅捜索を受けている。だが、その医師は『麺麭の略取』の入手先をとっさに沖野岩三郎とは答えず、大石誠之助と捜査員に答えたため、沖野が「大逆事件」の「容疑者」として改めて逮捕されるのをまぬがれている。だが、当の小児科医は同書を所持していたということで、警察からは「要視察人」として常時尾行がつくようになってしまった。

 

 沖野自身、「大逆事件」への連座を紙一重でまぬがれたことが、信仰に帰する「神」一重の加護だと考えていたのか、単なる偶然の重なりにすぎないととらえていたものか、彼の著作や資料の多くを読んでいないわたしとしてはなんともいえない。ただ、教会牧師を辞めて下落合1505番地(のち1510番地→1932年以降は下落合3丁目1507番地)へ転居してきたあとも、執拗に繰り返される刑事の訪問や尾行は、彼をいつ逮捕されるかわからない「大逆事件」当時からの緊張を解きはしなかったろうし、また昭和初期から敗戦までのより徹底した特高による宗教弾圧には、さらなる切実な危機感を抱いていたかもしれない。

◆写真上:明治学院大学キャンパスに残る、明治学院記念館(旧チャペル)のドア。
◆写真中上は、同大学のキャンパスに保存されて残る1889年(明治22)に建設された宣教師館(インプリ―館)。は、インプリ―館に設置された独特なデザインの窓。は、1890年(明治23)に建設された明治学院記念館(旧チャペル)。
◆写真中下は、沖野岩三郎も学生時代に目にしていた宣教師館(手前)と旧チャペル(奥)。は、診察室における大石誠之助。は、書斎の大石誠之助。
◆写真下は、沖野や大石誠之助、西村伊作らが写る新宮での記念写真。中左は、下落合時代とみられる沖野岩三郎。中右は、現在では新宮市の名誉市民になっている大石誠之助。は、大石誠之助(左端のシルクハット姿)が新宮で開店した洋食屋「太平洋食堂」。医師の立場から、栄養価の高い洋食を普及しようと開店したが、流行らずに閉店している。
おまけ
 今年は暖かいせいか、家の近くのモミジがなかなか紅葉せず5割ほどが青いままだ。