「目白文化村」シリーズで、落合町地区の関東大震災による被害を調べていたときに、九条武子の名前がよく登場した。うちの近所にある、「野鳥の森公園」の真上に住んでいた、あの歌人の九条武子さんだ。(震災当時は、まだ下落合に引っ越していなかった) まあ、その面影といったら、下町のわたしなんぞはついぞ見かけたことのない独特な顔立ちで(好き嫌いは別にしても)、ついジッと見つめてしまう。1928年(昭和3)に、わずか42歳で亡くなってしまうのだが、彼女には“元祖”と呼ばれるものが2つあった。
 ひとつは、「成田離婚」の元祖。いえ、当時は横浜から船に乗って海外へ出かけたわけだから「横浜離婚」が正確な表現。22歳で九条良致男爵と結婚したが、イギリスへの新婚旅行(夫の赴任がてら)からさっさとひとりで帰国し、すぐにそのまま別居している。正式な離婚ではなかったようだが、別居=実質的な離婚だったのだろう。九条男爵と別れてから、ほどなく佐々木信綱に師事して歌人(詩人)となった。代表作には、『金鈴』『無憂華』『盧染』などがある。彼女ならではの七五調リズムの文体がどこか心地よく、惹かれる理由なのかもしれない。その思い切った生き方は死後、1930年(昭和5)に映画にもなった。
 もうひとつが、日本における本格的な「ボランティア」の元祖。関東大震災が発生したとき、下町から避難してきた震災難民は、広大なキャンパスをもった東京帝国大学や早稲田大学などへ集まった。夏休み明けで大学にもどって来つつあった学生たちは、自然発生的にグループを作って避難民の救済にあたった。このときの学生たちの活動が、ボランティアの元祖だと指摘される方もいる。確かにそういう側面もあるかもしれないが、九条武子の動きも早く、もっと意識的かつ組織的で、活動範囲が自治体との連携や要求運動にまで及んでいった。確かに、ブルジョアのヒマつぶしと言ってしまえば元も子もないのだが、なにかと評判の“売れてる顔”を武器に、大正期の当時、これほど救援活動をスピーディかつダイナミックに展開した人はほとんどいない。

 離婚してから20年間、独身を張りとおしたわけだから、どこかもの寂しげな表情の写真が多いのだが、下落合の自宅前でニヤリと笑う着物姿の彼女は、かなりしたたかできかん気の強そうな表情もかいま見せている。今回、ブログへその自宅前でニヤリの写真を載せようとしたのだが、持っていたはずなのにどこへまぎれてしまったものか出てこない。
 それにしても、なんとも上品な面立ち。きっと、「邪魔するんじゃないよ、どきな!」なんて、死んでも言わなかったんだろうな。

■写真:上は、関東大震災直後に永田秀次郎・東京市長と救援策について打ち合わせをする九条武子。下は、20歳前後のポートレート。