「不動谷」が西へ誤って400mも移り、「バッケが原」が北西へと少しずつ移動し、「前谷戸」が南へ誤って500mも下ったことを書いたが、ついでに下落合駅も本来の位置から300mほど、西へ移動してしまったことにも触れておきたい。この駅の大幅な移動が、現在にいたるまでの下落合地域に、大きな影響を与えているからだ。
 1927年(昭和2)、西武電気鉄道(西武新宿線)が本格的に開業したとき(敷設・貨物利用は大正期から)、「下落合(志もをちあい)」は終着駅だった。高田馬場からの終着ではなく、反対の東村山から東京へと出る終点が下落合駅だったのだ。西武電気鉄道が「やま乃て線」の高田馬場駅へ乗り入れるのは、翌年の1928年(昭和3)からだ。本来の下落合駅は、現在の氷川明神社のまん前にあった。当初はここから歩いて5分、神田川にかかる田嶋橋から栄通りをとおって省線の高田馬場駅へと出ていたのだ。
 ターミナルとなる駅から、ひとつめの駅が近すぎたので、おそらく西への移転となったのだろう。同じような経緯が武蔵野鉄道(西武池袋線)にもあって、池袋からひとつめの間近な駅「上屋敷(あがりやしき)」Click!は、西へ移動することなく戦後に消滅し、いまでは椎名町駅がひとつめとなっている。1930年(昭和5)の地図まで、下落合駅は氷川明神の前に描かれているが、1933年(昭和8)の地図から現在位置へと移転している。
 “駅前交番”という用語があるが、氷川明神前にあった下落合駅の北にも、駅前交番が設置されていた。氷川社の東側、庚申塚が残る前の一角だ。この「氷川前派出所」は、下落合駅が西へ遠く移動してしまったあとも、なぜかそのまま居残りつづけた。聖母坂下の現在地へ移動し、「下落合駅前派出所」となるのは1947年(昭和22)以降のことだ。
 この下落合駅の移動は、道路計画にも決定的な影響を与えた。放射7号線(新目白通り)は本来、元の下落合駅をかすめて斜めに貫通し、早稲田通りへ一度合流してから甘泉園(当時のもうひとつの相馬邸)へと抜けるはずだった。1929年(昭和4)には、放射7号道路予定の点線が青く描きこまれた地図が発売され、すでに西へ下落合駅が移転してしまったあと、1933年(昭和8)には完成予想もかねた地図までが発行されている。(昭和8年淀橋區・下図)

 ところが、下落合駅が西へ大きく移動してしまったため、当初の下落合駅前経由の道路計画が大幅に狂ってしまった。高田馬場駅前から下落合駅前(氷川社前)へと通るはずだった十三間(約25m)道路は、急に予定を変更され、西武電気鉄道の北側にある氷川明神の境内をぶち貫き、田嶋橋を経由せず高田馬場駅へと鋭角に合流するという計画になった。氷川社はもちろん、予定地外だと思って安心していた住民や企業は愕然としただろう。結局、高田馬場へとは抜けずに、戦後は山手線をくぐって学習院下のほうへと抜ける計画に変更されるのだが・・・。もし、当初の予定通りに放射7号線が造られていたら、いまの下落合風景はかなり異なるものになっていたに違いない。
 下落合駅が、いまでも氷川明神のまん前にあったとしたら、山手線へと出るのに下落合の住民は便利に利用するだろうか? 「ありいた(歩いた)ほうがはえ(早い)じゃねえか」・・・、じゃなくて、「歩かれても、ものの5分ほどでございますもの」。

■写真:左は現在の下落合駅、右は元の下落合駅跡。プラットホームの名残りか、左手の富士大学から中央図書館あたりにかけ線路敷地にかなりの余裕がある。