目白文化村についてブログに書いていたら、ある方から第二文化村に住んでいた安倍能成のハガキをお譲りいただいた。東京オリンピックが開催された年、1964年(昭和39)12月16日(水)の正午ごろに書かれた、本人自筆のハガキだ。発信は下落合の落合長崎局、受信は神奈川県湯河原の千歳局。あて先は、同地の「湘碧山房」で執筆していた谷崎潤一郎だ。谷崎自身も、このハガキを手にしたのだろう。
 谷崎は当時、京都にあった自宅を整理し、ふるさとの東京も間近な湘南海岸が一望できる湯河原の吉浜字蓬ヶ平にあった、「湘碧山房」で病気療養しながら執筆をつづけており、『瘋癲老人日記』や『台所太平記』を発表してから間もないころ。安倍能成も健康がすぐれず、熱海にあった岩波茂雄の別荘へ温泉療養に出かけようとしていた。文面は、谷崎の健康への気遣いから始まる。
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 其後御健康如何ですか 御自重下さい
 小生も人之薦めで灸を据えました処 蕁麻疹が起りよはつて居ます
 十二月廿七日----一月五日 例によつて岩波別荘に逗留しますから
 一度お尋ねしたいと思つて居ます
 御都合の日をお知らせ下されば幸甚です
 

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 安倍能成は、第二文化村の自宅(旧・下落合3丁目1367番地)でこのハガキを書いたあとゆっくりと昼食をとり、午後の散歩のときに、ゆるやかな坂道を下りながら最寄りのポストへ投函したに違いない。安倍能成邸からもっとも近いポストは、第四文化村へと抜ける道の途中、たばこ屋のならびに設置されていた。いまでは、十三間道路のちょうど真下になってしまっている。
 安倍能成が熱海へと発ち、谷崎潤一郎を見舞ってから半年後、1965年(昭和40)7月1日に谷崎潤一郎は病死。安倍能成も、翌々年の1966年(昭和41)6月7日に亡くなっている。

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■写真:上は安倍能成から谷崎潤一郎へのハガキ、下は安倍能成邸からポストへの散歩コース。