目白文化村(第二文化村)の造成は、その周辺地域に強烈なインパクトを与えた。特に、旧・下落合4丁目(現・中落合4丁目/中井2丁目)界隈の地主たちは、昭和初期には競って文化村を模倣した住宅を建て、分譲あるいは賃貸をしはじめた。そこここに西洋館、あるいは和洋折衷のいわゆる初期型“文化住宅”が建ちならび、林芙美子はその景観を称して「ムウドンの丘」Click!と書いている。
 1932年(昭和7)6月、『放浪記』の連載を上落合の借家で終えていた林芙美子は、新しい家の物色をはじめていた。落合界隈が気に入っていた彼女は、妙正寺川(林は落合川と呼んでいる)の北側、すなわち第二文化村の近くに最初からマトを絞っていたようだ。もちろん、家を買えるほどの余裕はなく、最初から借家探しだった。友人の吉屋信子が、第二文化村にほど近い南斜面に家を建てて住んでいたせいもあるのだろう。どこかに、対抗心もあったのかもしれない。
 でも、最先端の和洋折衷住宅を探してきたのは、林芙美子ではなく画家の夫・手塚緑敏だった。偶然に写生をしていた五ノ坂下の家が空き家で、地主の老人に「借りてくれ」と懇願されたのだ。家賃は50円だったというから、とんでもなく高額だ。当時のサラリーマンの平均月収が、だいたい50~70円ぐらいだから、本が売れはじめて余裕が出てきたとはいえ、かなり見栄を張ったのではないか? 1932年(昭和7)の秋には、この家に引っ越している。それから9年間、この家に住みつづけ、1939年(昭和14)には四ノ坂の中腹に、島津家の所有地だった土地を買って家を建て、1941年(昭和16)8月に新居へ移った。元の家から、わずか150mほど東へ寄ったあたりだ。それが現在の「林芙美子記念館」で、この家が彼女の終の棲家となる。
 

 五ノ坂のしゃれた旧・林芙美子邸は、四ノ坂の自宅とともに空襲にも遭わず、確か1970年代の半ばまで残っていた。当時は、「林芙美子記念館」はオープンしておらず(かなりあとまで家族が住まわれていた)、四ノ坂の和風旧邸よりも、五ノ坂の文化村の匂いのする旧邸のほうが、圧倒的に人気があったように記憶している。目白文化村の簡易スキー場をまねたのか、彼女は雪が降ると、五ノ坂でスキーを楽しんでいたようだ。やはり、林芙美子の頭の中には、吉屋信子ほどではないにせよ、目白文化村への強いあこがれがあったように思える。

■写真上:五ノ坂にあった、和洋折衷の旧・林芙美子邸。(1972年・昭和47)
■写真下:左は林芙美子の落合引っ越し経路。上落合の旧居は、護岸改修された妙正寺川の実は真下になってしまっている。右は四ノ坂で行われた、林芙美子の葬儀。(1951年・昭和26) 葬儀委員長は川端康成だった。

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