1920年前後から、目白文化村の造成は開始されているが、それ以前から目白通りには乗合自動車が走り始めていた。「駅より文化村迄 乗合自動車の便があります」というのが、文化村のセールスポイントのひとつだった。その乗合自動車(バス)の運輸を手がけていたのが、長崎町にあったダット自動車合資会社だ。
 1919年(大正8)5月、ダット自動車(合)は長崎町4053番地に誕生している。1914年(大正3)に設立されていたダット自動車製造の、都市運輸部門を担当する会社だったようだ。目白駅を始発とし、東長崎と練馬を経由して、終点はその先の豊島園だった。営業距離数は、17kmと少し。典型的な、東京郊外ののどかなバス路線だ。
 当時は、「新時代の都市景物詩として一沫の清新味がある」などと騒がれている。まだ、バスがめずらしい時代だったのだ。文化村ができ、目白通りの往来が頻繁になるにつれ、ダット乗合自動車の利用は急増していく。昭和初期の利用客状況は、1日平均1,700~1,800人というから、かなりの混雑だったろう。今日の都市バスと比べたら、その乗車可能人数は半分以下だったと思われる。

 目白駅から豊島園まで乗ると、昭和初期の乗車賃で大人20銭。目白駅から東長崎までが大人8銭だから、おそらく停留所「文化村」で降りても8銭だったのだろう。急激な人口増加で、ダット自動車は順調に成長していく。のちにダット自動車はダットサン、現在の日産自動車に吸収されている。

■写真:上はダット乗合自動車(バス)、下は拡幅前の昭和初期、目白通りを走るダット乗合自動車。「栄寿し」の看板があるので、現在の「子安地蔵」のあたりか?
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