丸見屋といっても、あまりピンとこないかもしれない。♪ワッワッワ~、輪が3つ~・・・と、3人のお姉さん人形がフラフープを持って踊る、「ミツワ石鹸」のCMを憶えていらっしゃる方も多いだろう。1860年(万延元)、三輪(みわ)善兵衛は大江戸で丸見屋を開店する。ミツワ石鹸が発売されたのが、1910年(明治43)。もともと化粧品店として出発し、一時は新橋資生堂と肩を並べて化粧品業界をリードしていたのだが、ミツワ石鹸が売れに売れて、その後、社名を丸見屋からミツワ石鹸本舗丸見屋商会、戦後は(株)丸見屋から(株)ミツワ石鹸へと変更している。
 初代から二代・善兵衛へと商売が受けつがれ、丸見屋のミツワ石鹸は全国規模で浸透していった。下落合に住んでいたのは、三代目の三輪善太郎だ。ちょうど、いまは七曲坂の上、目白シティハウスが建っているところに三輪家はあった。「而も一面社会精神に富み、町同志会幹部に推されて多年の功労がある」と、町誌に伝えられている。ところが、このミツワ石鹸の三輪邸から、ほんの400mほどしか離れていないところ、学習院昭和寮(日立目白クラブ)のまん前に長瀬邸があった。下の空中写真が撮られた当時は、長瀬商会の二代目・長瀬富郎(富雄)が住んでいたはずだ。長瀬商会は、ミツワ石鹸の発売に先立つこと20年も前、1890年(明治23)に「花王石鹸」を売り出していた。長瀬商会は戦後、花王石鹸(株)から(株)花王となり現在にいたっている。
 偶然にしては、こんなこともあるのだ。戦後、市場シェアを争って特に正面から激突することになる、ミツワ石鹸と花王石鹸が、自宅のある下落合では“ご近所同士”だったのだ。盆暮れのご近所への贈答は、いまの下落合2丁目界隈では花王石鹸、3丁目から4丁目界隈はミツワ石鹸が多かったんじゃなかろうか? そして、ちょうど両家の中間あたりだと、ミツワ石鹸と花王石鹸が入りまじるお宅もあったかな?・・・などと、つまらないことを想像してしまう。こういう場合、地元への寄進や祭事への寄付などをめぐって、両家はかなり熾烈な競争をしていそうなのだけれど、面白いエピソードでも残っていないかどうか、今度、地元のお年寄りに訊いてみたい。

 ところで、丸見屋は単にミツワ石鹸の製造メーカーであるにとどまらず、さまざまな分野で突出した仕事をしている。まず、大正期にはめずらしい広告宣伝部の存在だ。コピーライターやデザイナーといった概念がなかった当時、多くの小説家や画家を宣伝部に入社させて、本格的な広告制作を行っている。そして、世界中から文学や広告、画集など10万冊にものぼる本を“資料”として集め、「ミツワ文庫」と名づけていた。この貴重な蔵書館は、残念ながら関東大震災で焼失してしまった。のちに、ミツワ石鹸の副社長となる衣笠静夫が入社してからは、当時の電通をもしのぐほどの優秀なスタッフを抱えて、広告分野では優れた仕事を残している。
 1975年(昭和50)に、ミツワ石鹸は倒産して米国P&Gの傘下へ入る。三輪家の完敗だった。いまでは、消毒石鹸の「ミューズ」ぐらいしか、ミツワ石鹸の面影を目にすることはないが、わたしが物心つくころは、石鹸といえばミツワか花王のどちらかだった。わが家は、圧倒的にミツワ石鹸党だったけれど、世間ではミツワよりも花王の「牛乳石鹸」のほうを、多く見かけたように思う。そう、石鹸なんて呼ばずに、親たちはシャボンと呼んでいた。

■写真上:大正期から昭和初期にかけての両社製品。オジサン顔の月のマークが不気味だ。
■写真下:下落合350番地の三輪邸(ミツワ石鹸)と、下落合416番地の長瀬邸(花王石鹸)。