下落合の目白崖線には、古来から清廉な泉Click!が随所に湧き出ていた。林泉園を湧源とし、藤森稲荷の近くで“弁天池”を形成していた泉、旧・相馬子爵邸の敷地だった、御留山中腹から湧き出たいくつもの泉、瑠璃山薬王院から流れ出た小流れの泉、目白文化村の第一文化村にある“弁天池”の谷戸に湧き、第四文化村の谷間へと流れくだっていた泉・・・。これらの源流となる泉で、現在でもこんこんと湧きつづけているのは、御留山の谷戸地(おとめ山公園内)にある泉だけだ。少なくとも、目に見えるかたちでは・・・。
 では、他の泉は宅地化とともに枯れはてて、埋め立てられてしまったのだろうか? いや、いまでもそれらの泉は、そのまま湧きつづけていて、直接目に触れなくなっただけなのだ。多くの湧水の小流れは、市街化とともに水量こそ少なくなったかもしれないが、実は地下の“下水管”を流れている。道路の下、あるいは住宅やマンションの下を、泉から湧いた水はそのまま流れつづけているのだ。場所によっては、泉からの流れに沿って細長い東京都の所有地がつづき、その下を東京都下水道局が管理する下水管が通っている。下落合の土地台帳を見ると、敷地とも呼べない細分化された都有地が、ところどころに散在しているのはそのせいだ。

 聖母坂の西に、薬王院持ち諏訪社の境内があったため、通称“諏訪谷”と呼ばれる谷間がある。江戸期にはここからも泉が湧き、豊かな水流が斜面をくだっていたのがわかる。明治~大正期には、付近の畑で採れた下落合大根Click!をはじめとする泥付き野菜を洗ったのか、通称“洗い場”Click!と呼ばれる池があり、戦前には湧き水を利用したプールが造られた場所だ。この泉からの流れは、聖母坂(45号線)や聖母病院が造られてからはそれに沿って南へとくだるが、その小流れの筋のままのかたちで、断続的に細長い都有地がつづいている。
 一戸建ての住宅だと、庭の一部となって目立たなかったものが、マンションやビルの建設によって、都有地の上には建物が建てられないためにかえって目立ってきた。建物の裏側に、用途がよくわからない半端な空きスペースがあったり、使いにくそうな細長い自転車置き場があったりするが、もともと湧き水が流れていたのを暗渠化した都有地であることが多い。
 
 大正の後期から昭和初期にかけ、急速に宅地化が進んだ下落合界隈だが、目白崖線のそこかしこから湧いていた数多くの泉は、埋め立てられたり下水道として暗渠化されたりした。でも、その清流を目にすることはなくなったものの、いまだに地面の下を脈々と流れつづけている。

■写真上:ビルの裏側に残る、中途半端な細長い都有地。もともとあった湧き水の流れが、“下水道”として暗渠化されたものだ。マンションが建設されると、昔の泉の流れがふいに姿を現す。
■切絵図:御府内場末往還其外沿革図書「下落合村之部」(1680年ごろ・延宝年間)。江戸期の絵図や明治以降の地図には、流れの形状を頻繁に変えながら、泉から湧き出た小流れが随所に描きこまれている。
■写真下:左は、諏訪谷へと降りる急激な階段。左の円柱にはウサギまたはフクロウの飾りが付いていたのだが、何度設置しても盗られてしまうので、情けないことに最近は修理するのをやめてしまった。右は諏訪谷の現状で、“洗い場”があったあたり。