1937年(昭和12)の盛夏、首相官邸の一室には首相・近衛文麿と秘書官・牛場友彦、そして戦線不拡大を唱える参謀本部作戦部長の石原莞爾が顔をそろえていた。日本と中国の全面戦争を避けるために、7月7日に起きた盧溝橋事件を「局地的な紛争」としてとどめ、ひいては独断で前線を拡大しつづける陸軍をどうしたら抑えられるか・・・というテーマをめぐる、ひそかな打ち合わせだった。会議の席で、ひとつの方策が練られた。
 その方策とは、念のためにバックアップも含めた2段階で構成されていた。第1段階は、近衛自身が南京にある国民党政府の蒋介石のもとへ直接出かけ、和平をその場でまとめてしまうという方法。第2段階は、もし陸軍の妨害でそれが実現できなかった場合、蒋介石とも馴染みの深い人物を南京に派遣して、近衛首相の親書を蒋介石へ直接手渡す・・・という計画だった。海軍部内でも和平への希求が根強く、この“作戦”を背面からひそかにサポートしていたとされている。
 さっそく、南京へ向かう飛行機の準備に取りかかるのだが、たちどころに陸軍の知るところとなり、陸軍大臣・杉山元の猛反対で、即つぶされてしまった。方策はバックアップ段階へと進むことになり、親書をたずさえた密使の派遣が決定された。その密使には、思いがけない人物が選ばれていた。いや、当時の中国革命史と日本との関わりに通じていた人々にしてみれば、それほど意外なキャスティングではなく、しごく妥当な人選と映っていたのかもしれない。
 
 大正期、柳原燁子(白蓮)Click!とのスキャンダルで、新聞紙上をにぎわせた宮崎龍介は、目白通りから北へと入った上屋敷(あがりやしき)駅Click!の近く、雑司ヶ谷町6丁目(現・西池袋)で白蓮との落ち着いた暮らしをしていた。そこへ突然、降って湧いたような話が、首相官邸から持ち込まれた。首相の親書を、密かに南京の蒋介石のもとへとどけてくれという法外な依頼だっだ。当時の宮崎龍介は、無産主義運動からはとうに手を引いてたとはいえ、一瞬わが耳を疑ったかもしれない。
 いくら近衛と宮崎の父親同士が、孫文の中国革命を支援した仲間で、また学生時代にはマルクス主義にのめりこんだ、ともに元「無産主義者」同士ということで気軽に依頼してきたのだろうが、宮崎龍介にしてみれば寝耳に水の話だったろう。昔から、目白通りを挟んだ隣り町同士のよしみもあり、ふたりは大正期の若いころから、お互い顔なじみだった可能性が高い。また、上屋敷と下落合とで、ときに行き来があったのかもしれない。
 ちなみに、宮崎邸は当時もいまも上屋敷(西池袋)にあるが、近衛篤麿が建てて文麿も住んだ下落合の近衛邸は、1934年(昭和9)ごろ永田町へ一時的に移転し、荻窪に「荻外荘」Click!を入手すると、1938年(昭和13)にはそちらへ引っ越している。だから、近衛文麿が宮崎龍介へ密使の依頼をしたのは、ちょうど仮住まいのような永田町時代だった。
 
 宮崎龍介の父親・宮崎滔天(とうてん/虎蔵)は、学習院長だった文麿の父・近衛篤麿や犬養毅らとともに、中国を脱出して日本に二度亡命してきた、“革命の父”とも“国父”とも呼ばれる孫文を、親身になってかくまい世話をつづけた。近衛文麿自身も、横浜の中華街に潜伏していた孫文のもとへ、何度か連絡・支援に出向いている。そのとき、孫文は「中山樵(しょう)」の偽名を使い、東京とその周辺を転々としていた。中国革命が実現したとき、孫文は日本の支援者に感謝をこめて、字(あざな)を“中山”と名乗った。広東省にある孫文の故郷は、いま中山市となっている。革命の継承者である蒋介石は、そのいきさつをもちろん熟知していたので、“革命の父”の恩人の息子である特使を拒むはずがなかった。
 7月23日、宮崎龍介は近衛首相の密書を手に、東京駅から神戸へ向けて旅立った。おそらく東京駅頭には、子供たちを連れた白蓮も見送りに来ていただろう。神戸で下りて船で上海まで行き、そこから長江をさかのぼって南京へと渡る手はずになっていた。南京の蒋介石のもとへは、あらかじめ暗号電文による知らせがとどいており、「特使派遣を歓迎する」との返信が、早々に近衛首相のもとへとどいていた。宮崎龍介は汽車に丸1日ゆられて、翌日、目的地の神戸へと下り立った。
 そのころ、東京では近衛文麿がどういうわけか、盧溝橋事件では戦線拡大を唱え、自身の南京行きを強く妨害した当の杉山陸相に、蒋介石のもとへ密使を派遣したことをペラペラと話してしまっていた。近衛の思惑としては、陸軍による妨害が行われないよう杉山陸相にクギを刺したつもりだったのだろうが、これがとんだヤブヘビとなってしまう。杉山は首相官邸をあとにするや、そのまま憲兵隊本部へすぐに連絡を入れたようだ。
 宮崎龍介は、神戸港に停泊していた中国行きの船へと乗り込んだ。タラップを上がり、船員に自分の船室を訊ねたとたん、周囲を屈強な男たちに囲まれ逮捕されてしまった。1937年(昭和12)7月24日のことだった。蒋介石宛ての近衛親書は没収され、以降、宮崎龍介は長期間にわたり憲兵隊で拘留されることになる。日中の全面戦争を回避することができた、ほとんど最後のチャンスだった。翌年、日本は軍部との利害が一致した汪兆銘のカイライ政権化をめざし、近衛政権は「爾後国民政府ヲ対手トセズ」と和平交渉の打切りを閣議決定、自ら講和の芽をつんでしまう。
 
 「その時歴史が動いた」ではなく、きょうは「その時歴史は動かなかった」のノリで、目白に眠る物語を書いてみた。

■写真上:上屋敷にある宮崎邸。近衛邸とは、目白通りをはさみ直線でほぼ等距離にあった。
■写真中上:左は、自宅の宮崎龍介と白蓮。右は、近衛邸の庭でくつろぐ近衛文麿。
■写真中下:左は下落合の近衛邸跡に残る近衛篤麿の記念碑。右は荻窪の「荻外荘」玄関近く。
■写真下:左は、戦前の「荻外荘」の様子。右は、1940年(昭和15)7月に行われた「荻窪会談」。第2次近衛内閣の組閣を目前にした、左より近衛文麿(首相)、松岡洋右(外相)、吉田善吾(海相)、東條英機(陸相)の入閣予定者たち。この会談で「枢軸強化」と「南進」が決められ、日本は破局への道をまっしぐらに歩み始めた。