佐伯祐三の「タンク」(1926年・大正15)の風景は、すぐにも特定できると思っていたのだけれど、これが案外やっかいだった。てっきり第一文化村の水道タンクだと思ってタカをくくっていたのだが、これがぜんぜん違うのだ。第一文化村のタンクは、水道水をタンクへと組み上げる水道器械室(ポンプ建屋)がタンクの南側にあった。手前の建物をポンプ建屋と仮定すると、このような風景は第一文化村には存在しない。
 まず、第一文化村のタンクと水道器械室は、地形から見ると谷底へ向けてゆるやかに落ちこむ傾斜地に設置されていた。ところが、絵からはその傾斜がまったく感じられない。また、道筋もぜんぜん違っている。手前から左側へと、逆「く」の字型にやや折れた道と、タンクの向こう側から右手へと曲がっていく道、そして遠景の風情を考慮すると、第一文化村の水道タンクをどのような角度から眺めても、このような風景は存在しないのだ。
 
 そして、第一文化村のタンクと水道器械室は、草木が繁る空地のような場所に建てられていた。もし、仮に右側の建物を住宅の一部と考え、他の方角、たとえば北側からタンクを眺めたとしても、このような風景は形成されない。タンクの位置が道路に近すぎるし、今度は水道器械室が存在しなくなってしまう。第三文化村の北辺にあったとみられる、水道タンクとも道筋がまるっきり一致しないし、前方に見えている風景も当時の第三文化村の様子には見えない。
 わたしが、なによりもひっかかったのは、左右の住宅敷地に沿って見られる敷石と、道路沿いの下水溝とみられる縁石だ。これはもちろん、箱根土地が目白文化村を造成した際に、区画割りあるいは築垣に用いた大谷石と、おもに花崗岩を用いて縁石や蓋石が造られた下水溝の特徴に一致する。つまり、この絵は必然的に目白文化村の内側の、ある場所を描いていることになる。特に左側の住宅の塀に沿っては、大谷石の敷石はもちろん、花崗岩で造られた下水溝がはっきりと描かれている。第一文化村の水道タンクは村内ではなく、大谷石による整地区画がなされていない、南外れの原っぱのような場所にあった。
 
 目白文化村の内側に、水道タンクが設置されていた残る選択肢は、佐伯祐三の好きな第二文化村しかありえない。しかし、ここでも課題が浮上した。手前の建物を水道器械室だとすると、こんな風景や道筋は第二文化村にも存在しないのだ。第二文化村のタンクでは、水道器械室はタンクの北東側に設置されていた。『落合新聞』の竹田助雄氏Click!が発見した、「目白文化村分譲地割図」(1925年・大正14)を見ると、確かにポンプ建屋は北東側にある。これでは、佐伯の「タンク」は左右が逆の“裏焼き”のようになってしまう。また、描かれた道筋もまったく合致しないのだ。
 そこで、ひとつ仮説を立てた。仮に、手前の建屋が個人住宅の一部、たとえば物置か温室か、あるいは道具置き場かはわからないけれど、個人邸の敷地に建つ小屋状のものだとしたら、とたんにツジツマが合ってくるのだ。そう、右手の区画は大正末の当時、坂本邸の一部であり、庭のすみに建てられた小屋状の建物越しに、第二文化村の水道タンクがのぞいている・・・ということになる。1936年(昭和11)の空中写真でも、小屋状の小さな建物の影が見えているし、道筋のかたちもピタリと一致する。正面の広大な空地の説明も、第二文化村なら説明がつくのだ。
 
 左手の、チラリと見えている塀のお宅は当時の松葉邸。正面の広い空地は当初、箱根土地の社員のために確保した、社宅を建設するための予定地だった。だが、佐伯祐三がこの絵を描いた1926年(大正15)には、箱根土地本社はすでに下落合にはなく、国立駅前へと移転していた。だから、この社宅敷地も売却されていたと思われ、ちょうど電柱の下に人物が建っている角の区画は、当時すでに吉岡家の所有名義となっていた。戦後、この広いスペースには下落合教会Click!ができ、やがて下落合みどり幼稚園が開園することになる。遠景に見えている屋敷は、第二文化村のすぐ外側に建てられていた林田邸か奥村邸のいずれかだ。
 もうひとつ、1936年(昭和11)の空中写真のみではわからないテーマもある。ものたがひさんにご指摘いただいた、落合町の目白文化村に「荒玉水道」が引かれたのはいつか?・・・というテーマだ。以前、ここでもご紹介した野方配水塔Click!が完成したのが1931年(昭和6)。つづいて、NO NAMEさんのお父様のご記憶によれば、第一文化村に水道が引かれたのは1932年(昭和7)とのご教示をいただいた。とすると、1936年(昭和11)現在の空中写真にはタンクはすでに撤去され、写っていない可能性が高い。各文化村の水道タンクが、実際に設置現場から撤去されたのはいつか? 特に第二文化村の場合は、分譲敷地内の一部にタンクが設置されていたので、すぐに撤去されて宅地として売られてしまったかもしれない。
 
 「テニス」Click!とともに、佐伯祐三が文化村の中へ踏みこんで描いた作品を、もう1枚見つけたことになる。どちらも第二文化村の外れに近い場所(「テニス」は南端で「タンク」は北端に近い位置)なのだが、佐伯はなぜ、文化村から外側へ向いた作品ばかり描き、かんじんの文化村の内側を描いた作品が見あたらないのだろう。それとも、文化村内を描いた『下落合風景』は、「おや、佐伯先生、やってるね。ところで、いまあんたが描いてるの、実ぁわが家なんだけどさ、完成したらちょいと譲っちゃくれめえか?」(なぜか下町言葉)と、文化村の家々に購入されて、1945年(昭和20)4月13日の空襲でみんな焼けてしまったとでもいうのだろうか? 「フビ(ヴィ)ラ村の道」を、なんとしてでも探し出して観てみたいものだ。いまでも存在していれば・・・の話だけれど。
 では、「タンク」の描画ポイントを空中写真Click!へ加えてみよう。

■写真上:左は、『下落合風景』の「タンク」。おそらく1926年(大正15)10月14日に描かれたもので、ものたがひさんご指摘のように快晴の日だ。右は、第二文化村の同所。正面が下落合教会(下落合みどり幼稚園)だが、両側のお宅にいまも残る大谷石の敷石と、道路に沿った下水溝(現在はコンクリートが多い)の縁石に注目いただきたい。
●地図:左は、竹田助雄氏が発見した「目白文化村分譲地割図」(1925年・大正14)の第一文化村水道タンク。この地割図は北が下だ。右は、「下落合事情明細図」(1926年・大正15)の同所。
■写真中上:左は、1936年(昭和11)の第一文化村タンクと水道器械室。右は、現在の同所。ここが東南に向けて緩やかな斜面だったことは、左手の家々が高い位置にあることでもうかがい知れる。
■写真中下:左は、1936年(昭和11)の第二文化村タンクと水道器械室。手前の屋敷内に、小さな建物が確認できる。右は、「目白文化村分譲地割図」(1925年・大正14)の第二文化村水道タンク。水道器械室はタンクの北東にあった。正面には「箱根土地会社社宅建設敷地」の文字が見える。
■写真下:左は、1947年(昭和22)にB29から撮影された同所。1945年(昭和20)4月13日の空襲で焼け野原だが、道筋のかたちがよくわかる。右は、いまも残る下水溝の縁石と蓋石。当初は花崗岩や一部蓋石は鋳物で造られたが、いまは一部に残るだけで多くがコンクリート製となっている。
★その後、第一文化村と第二文化村は4月13日夜半と、5月25日夜半の二度にわたる空襲により延焼していることが新たに判明Click!した。