満谷国四郎Click!中村不折Click!、石井柏亭たちとともに、中村彝Click!も絵を習いに通った「太平洋画会」を設立したひとり、洋画家・吉田博の作品をずっと探していた。彼の木版画作品に、「東京拾二題」とタイトルされたシリーズ作品がある。その中に、下落合を描いた作品がたった1点だけだが存在している。油絵ならともかく、江戸の昔からつづく木版画による下落合風景は、おそらくこの1作しか存在しないだろう。
 下落合の徳川邸にあったボタンの名所「静観園」Click!を描いた、『落合徳川ぼたん園』(1928年・昭和3)がそれだ。わたしは、展覧会の図録や画集ではなく、神保町を散歩していたら版画専門店のファイルに、たまたま実物を見つけることができた。鮮やかな色彩が残り、タテ25cm×ヨコ37.2cmのイメージサイズで和紙に刷られている。さっそく、買うわけでもないのにずうずうしく写真をいただいてきた。手に入れたくても、高価で手が出ないのだ。近代版画は作者にもよるけれど、おしなべて刷り枚数が少なく、版木を割ってしまうため重版が存在しないせいか、ヘタをすると江戸期の浮世絵よりもよほど高かったりする。
 竹垣が張りめぐらされたボタン園に、白いエプロン姿の娘を連れた母親が通りかかると、おそらく近所の知人と出会ったのだろう、「さあ、ごあいさつなさい」と娘にうながしている情景のようだ。奥では下落合の近所ではなく、東京のどこからかやってきた団体さんがボタンを見物しているようだ。のんびりした時間が徳川邸に流れ、いかにも昭和初期の乃手らしい風景。5月に入ると、徳川義恕男爵邸の「静観園」は一般に公開され、ボタンが咲き終わるまで東京じゅうから見物客を集めた。近くの落合尋常小学校Click!の生徒たちは、写生の時間になるとこの時期、必ず「静観園」へ連れてこられた。ボタンのほか藤棚やツツジ園などもあり、ちょうど5月の初旬が「静観園」の観ごろだったようだ。園内には、徳川家によるお茶の接待があり、また徳川邸の前には露店なども出て、まるでお祭りのような風情だったらしい。
 
 『落合町誌』(1932年・昭和7)に掲載された、「静観園」の紹介文を引用してみよう。
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 徳川男爵邸静観園の牡丹
 下落合不動谷にあり、方今落合の新名所と謳はれるものに徳川男爵邸の牡丹園がある、本園は明治四十一年来の経営にて其数七百種に上る、これが清新な初夏の天地に艶姿を彩るとき、巍紫趙黄研を競ひ芳を争ふの壮観さである、園内に藤の老樹があり、紫の波を漲らして更に風趣を引き立てる、其の景優に東京第一の誇りを為すと云ふて憚かるまい。盛時一般の愛玩観賞のために公開されて居る。
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 地元で編まれた「町誌」の表現だから、とかくオーバーな表現には違いないが、少なくとも現在の薬王院のボタン園よりは、はるかに規模が大きかったと思われる。また、「東京第一」と書かれているけれど、確かに吉田博が「東京拾ニ題」シリーズを制作するにあたり、そのモチーフのひとつに選ぶほど、ボタンの名所「静観園」は広く東京じゅうに知れわたっていたようだ。
 吉田博と下落合の接点は、おそらく「太平洋画会」仲間だろう。『落合徳川ぼたん園』の写生に訪れた1928年(昭和3)5月、ひょっとすると近所の満谷国四郎も同行していたかもしれない。

■写真上:吉田博の『落合徳川ぼたん園』(東京拾二題より/1928年・昭和3)。
■写真下:左は、1947年(昭和22)の敗戦直後に撮影された下落合の徳川邸。邸の東側(右側)の高台が、「静観園」のあったあたりだと思われる。右は、いままで薬王院のボタンは何度か画像や文章で紹介しているので、今回は旧・吉屋信子邸の庭に咲くみごとなボタン。