わたしはまたしても、しくじりをしてしまった。旧・下落合4丁目(現・中井2丁目)に建っていた、画家の林唯一邸を撮りそこねてしまった。もう少し早く、このサイトをはじめていたら、林唯一アトリエを確実に邸の写真とともにご紹介できたはずなのだ。
 林邸は、ついこの間まで五ノ坂にあった古屋芳雄邸Click!の南隣りに建っていた。しかも林アトリエは、よく挿画を担当した下落合2108番地の吉屋信子邸Click!と、1941年(昭和16)まで下落合2133番地に住んでいた五ノ坂の林芙美子/手塚緑敏邸Click!とは、ほぼ等距離にあたる地点だ。両邸へは、歩いて1~2分の距離だったろう。こんな重要なテーマを、わたしは見逃している。
 林は、大阪で松原天彩画塾に洋画を学んだあと、東京の川端玉章が主宰した画学校へ入学し、洋画家・徳永仁臣に師事している。ところが、本業の油絵よりも、雑誌に掲載された小説の挿絵のほうでブレイクした。挿絵の仕事は水彩が多かったようだが、当時の有名作家あるいは人気作家の作品へ次々と発表している。長谷川時雨、甲賀三郎、菊池寛、江戸川乱歩、吉屋信子、林芙美子、海野十三、賀川豊彦、広津和郎、武田麟太郎・・・と挙げだしたらきりがないほど、当時の文学界と林の作品は、切っても切れない関係にあったのがわかる。いや、戦前ばかりでなく、戦後も「世界名作全集」などを手にした方なら、一度は彼の作品を目にしているはずだ。
 林唯一が五ノ坂の中腹に家を建て、下落合2111番地へと引っ越してきたのは、1935年(昭和10)前後のことだと思われる。1930年(昭和5)に作成された国の1/10,000地形図では、古屋邸は描かれているものの、林邸は存在しないことになっている。(「化粧」Click!だらけでアテにはならないけれど) 1936年(昭和11)の空中写真を調べると、すでに古屋邸の南には大きめの屋根が見え、林邸が建っているのが確認できる。1934年(昭和9)という話もあるけれど、詳細な裏づけは不明だ。
 
 
 林は戦時中、海軍の記者クラブ「黒潮会」に属して、従軍画家として前線のラバウルへ送られている。♪さ~らばラバウルよ~また来るまでは~・・・と親父がときどき口ずさんでいた、米軍の“飛び石作戦”で取り残され孤立してしまう、あのラバウルだ。彼が、なぜ海軍の記者クラブと関係があったのかは不明だが、おそらく新聞小説の挿絵などを通じて新聞社との深いつながりができ、そこから海軍省記者クラブ入りを想定することができる。彼は海軍の報道班員として、1942年(昭和17)8月に第11航空艦隊の指揮下にあったラバウルの第25航空戦隊へと派遣されている。ちょうど、ラバウルの南西にあたるポート・モレスビーを攻略するために、一式陸攻による“渡洋爆撃”が連日行われているまっ最中だった。
 林は半年あまりラバウルを取材して、翌年早々に日本へと帰着している。この間の従軍生活を描いたルポは、挿絵入りで1948年(昭和18)に『爆下に描く』(国民社)として出版された。6月のミッドウェイ海戦直後とはいえ、いまだ「南方戦線」での敗色は濃くなっておらず、「国威発揚」的な文章表現ではなく、検閲による伏字がところどころに散見されるものの、事実を淡々とつづっている意外にクールな眼差しが、彼の性格を物語っているようだ。
 
 林はラバウル基地で米軍による空襲を受けているが、同書の中でそれについてこう書いている。
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 都市では爆弾よりも焼夷弾による防火に重点を置くべきであるが、若し爆弾と焼夷弾とを同時に落とされたとしたら、その処置は大変である。おそらく、そういう方法をとってやって来るであろうから、混乱して機宜の処置を失するより、退避する者は退避し、部署につく者は部署について行動すべきだと思う。/空襲が恐しいものであるか、恐しくないものであるかは、その物的被害は実際に遭ったものでなくても了解出来ると思うけれども、実際に遭わないものが、誰しも気にすることは、空襲時の精神的な恐怖である。 (同書「第二部・爆音」中央公論社版より)
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 林の予想どおり、この文章が書かれてからほぼ2年以内に、B29の焼夷弾と爆弾とを混合した絨毯爆撃により、日本の主要都市は壊滅的なダメージを受けることになる。
 
 林唯一は、下落合のアビラ村(芸術村)Click!にアトリエをかまえていたので、山手空襲Click!による直接の被害を受けずにすんだ。戦後は、おもに日本各地を旅して地域の民俗や風俗を記録風に描くかたわら、小説の挿絵画家へも復帰し、少年少女向けを中心に作品を残している。
 なお、林邸内のアトリエなどを撮影した、多くの写真資料をある方からいただいたので、近々それらもご紹介したいと思う。なにしろ、庭にタイル仕様の噴水があっためずらしいお宅なのだ。

■写真上:左は、五ノ坂の下落合2111番地に最近まで建っていた林唯一邸。右は、現在の同所。
■写真中上:上左は、新潮社版「現代長編小説全集」(1929年)に出版された吉屋信子の『海の極みまで』挿画。アイヌ語の会話が登場するめずらしい作品。上右は、武田麟太郎『枯葉抄』の挿画で、1939年(昭和14)の「婦人倶楽部」2月号に掲載されたもの。下は、中央公論社版の『爆下に描く』(2000年)に収録された挿画。ラバウル航空隊の、一式陸上攻撃機による渡洋爆撃の様子。
■写真中下:左は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる林邸。右は、1947年(昭和22)の空中写真。空襲を受けておらず、林邸の屋根がクッキリ見える。
■写真下:左は、ラバウルへ従軍中の林唯一。右は、五ノ坂の林邸界隈。