ブログでソースコードをいじることになるとは思わなかった。なんとかしてください。>So-netさん
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 五ノ坂に住んだ画家・林唯一Click!の貴重な邸内写真を入手したので、さっそくご紹介したい。林邸が興味深いのは、西洋館とも日本家屋とも、なんとも形容のしがたい外観デザインである点だ。大正期、下落合に建てられた住宅の多くは、外観が純粋な西洋館か、あるいは応接室/客間やアトリエなどの張り出し棟が洋風で、母屋は和風という和洋折衷の意匠だった。ところが、1934年(昭和9)に竣工したと思われる林邸はどうだろう。洋風と和風のデザインが分離せず、完全に溶け合ってしまっている。つまり今日的な日本住宅に近い、そのハシリのような建築作品なのだ。
 設計したのは林自身と、親しかったらしい建築に詳しい江口義雄という人物だ。建物面積は全体で約56坪、ふたりは「近代日本家屋」というコンセプトをベースに、瓦は日本型薬かけ青緑色、外壁はナグリ木部を化粧で見せて表面をクリーム色で塗り、腰は鉄平石張りにした・・・とある。塀には、北側の古屋邸Click!と同様に大谷石を採用し、五ノ坂全体の景観を統一的に考慮している。
 
 
 邸の内部も、洋風と和風とが混然一体となっていて、客間や茶の間は日本家屋の趣きそのままの畳敷き和室で、西洋館の1室に畳を敷いたというような違和感はまったく感じられない。逆に洋間のほうは、日本家屋にイスとテーブルを持ちこんで洋風にした・・・というような違和感もない。ごく自然に、西洋館の中の洋室というような風情に設計されている。今日的な目から見れば、日本の住環境としてはしごくあたりまえのことなのだけれど、これだけ自然に和と洋とを融合させたデザインは、当時の下落合でもめずらしかっただろう。昭和初期に建てられた林邸は、今日の日本住宅へと直結するコンセプトを先取りし、いち早く実現しているようだ。

 
 面白いのは、林唯一のアトリエは2階にあるのだけれど、和洋ふたつのアトリエが備わっていたことだ。1934年(昭和9)に発行された『主婦之友』6月号から、その様子を引用してみよう。
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 (和風アトリエ)は、二階になつてゐます。棹縁天井、トマテックス張りです。床は、お隣の洋室との関係上、廊下よりも五寸ほど高くなつてゐるので、ちよつと腰を下すのに便利です。北側の書棚の下部は、押入になつてをり、西側は一尺五寸高さの地袋を造り附けにし、その上に書棚を置き、またこの部屋の西北、階段室上部空間を利用して書棚と手洗所を設けました。
 (洋風アトリエ)は、和風アトリエの東につゞく部屋で、天井は梁形を現したトマテックス張り、壁体はラフコート仕上げ、床は杉板割の上を、ラワンとオークの寄木張りにして、蝋引き仕上げになつてゐます。造り附けの戸棚は、何れもオーク材を用ひ、装飾を兼ねさせてあります。木部はナグリ面仕上げ、オイルステイン塗りで、極く落着きのある部屋にしました。
                              (同誌「明朗な近代的の中流住宅新築画報」より)
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 当時の五ノ坂あたり、アビラ村の西まですでにガス管が引かれていたようで、今日の住宅建設と同様に電気・ガス・上下水道の生活インフラ工事が発注されている。
 
 

 玄関先には馬蹄形の池が掘られ、鯉や金魚が放たれていたようだ。この池は雨が降ったあとなど、ぬかるんだ五ノ坂をのぼってくる人たちが、泥をおとす靴洗いの役割りもはたしていたらしい。また、庭のテラス(当時はテレースあるいはテレスと表現)の先には、このころとしては非常にめずらしいタイル貼りの噴水が造られている。
 下落合の丘を西へとたどると、建築時期の古い目白駅近くの近衛町Click!や目白文化村Click!では、西洋館と日本家屋との共存、あるいは大正モダニズムによる和洋折衷の住宅デザインが目立つけれど、さらに西のアビラ村Click!エリアには、今日へと直結する和洋融合型の意匠をした家々が、ぽつんぽつんと建ちはじめていた様子がわかる。

■写真上:左は、庭に出て南東の方角から眺めた林邸。右は、五ノ坂から玄関ポーチ側の眺め。
■写真中上:上は、玄関ポーチと玄関ホール。下は、タイル貼りの玄関とわきの控え室。
■写真中下:上は、林邸の間取り図。下は、2階にあった和洋の異なるアトリエ。
■写真下:上左は和室の客間、上右は洋室の子供部屋。中左は浴室、中右はテラスと噴水。下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる、五ノ坂の林邸と周辺に住んだ人々。洋画家・松本竣介邸の隣りが、東京美術学校卒でのちに島津製作所の重役となる島津一郎の名前がみえている。