明治期に、電車で鬼瓦権蔵さんClick!たちにからまれながらも、日本女子大学や学習院女子部へ通って高等教育を受けていた女学生だが、大正時代に入ると向学心の旺盛な女性たちは帝国大学へも進出しはじめる。東北帝国大学は、日本で初めて女学生を受け入れた国立大学として有名だけれど、1913年(大正2)には入試に女性も参加させ、このとき3名が合格している。
 合格した女性とは、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)で助教授をしていた黒田ちか(ちか子)、同じく助教授の牧田らく(らく子)、そして日本女子大で助教授だった丹下うめ(うめ子)の3人だった。彼女たちは文系ではなく、3人とも理系(東北帝国大学理科大学)に合格している。黒田ちかと丹下うめは化学科に、牧田らくは数学科に入学した。特に、同大の最難関といわれていた化学科に、ふたりの女性が通ったというのは当時としては驚愕のニュースとなっただろう。
 
 1913年(大正2)に発行された『婦人画報』10月号から、3人合格の記事を引用してみよう。
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 東京女子高等師範学校助教授黒田ちか子(上、三〇)、同助教授牧田らく子(下、二十六)、日本女子大学助教授丹下うめ子(中、三十五)、の三女史は先頃東北帝国大学の入学試験に合格され九月十二日から就学されました。婦人にして帝国大学に入学されたのは今回を初めとします。黒田、牧田のニ女史は女子高等師範の出身、丹下女史は女子大学家政科を経て文部省中等教員化学科試験に合格された方です。左右の図は仙台なる東北帝国大学正門と同じく理科大学校舎の一部です。 (同誌「大国大学に入学の三女史」より)
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 当時は、女性に高等教育など必要ないとする、江戸期における武家社会の規範的風潮がほとんどそのままだった中で、この3人が初めて突破口を開いたことになる。でも、この記事に添えて描かれているイラストが、なんともいえず不可解なのだ。飛翔する鶴のシルエットはいいとしても、浜辺に置かれた蹄鉄型の磁石と髑髏(しゃれこうべ)はどういう意味なのだろうか? これが『婦人画報』の挿画家が抱いていた、当時の「理系」イメージだったのかもしれない。
 
 黒田ちかと丹下うめのふたりは、大学を卒業するとそのまま大学院へと進学し、のちに海外留学をへて博士号を取得している。また、牧田らくは母校の東京女子高等師範へともどり教鞭をとっていたが、そこへ妙な男が求婚者として現われることになる。金山じいちゃんClick!だ、いや当時はじいちゃんではなく、まだ若々しい洋画家・金山平三Click!だった。でも、当時からかなりの変人ぶりだったらしく、自分は一文無しなので、教授をしながらコツコツためた牧田らくの貯金すべてをつかって、下落合はアビラ村Click!の高台に土地を買い、自分の思い通りのアトリエを建てたときには「わたし、この人と、この先どうなっちゃうんだろ?」と、らく夫人は真剣に悩んだかもしれない。
 らく夫人は、結婚したあともしばらくは数学の研究をつづけ、数学に関する世界じゅうの文献整理や資料づくりを盛んに行っていたようだけれど、そのうち金山平三が画家として食べていけるようになると、もっぱら主婦業に専念するようになる。きっと、机にかじりついて数式とニラメッコしているよりも、夫につき合って仮装芝居Click!の稽古をしたり、踊りClick!をおどっているほうが、よっぽど楽しい(爆!)と気がついたからにちがいない。
 
 超マジメでお堅い高等数学の教授を、仮装に舞台に旅行に芝居に・・・と、少しずつ自分の世界へ引っぱりこんでは、しめしめとニヤついていた金山平三のClick!が目に浮かぶようだ。

■写真上:大正初期に撮影された、東北帝国大学の正門。
■写真中上:左は、東京女子高等師範学校出身の牧田らく。右は、同校出身の黒田ちか。
■写真中下:左は、日本女子大学出身の丹下うめ。右は、1906年(明治39)に建設された同女子大の豊明図書館兼講堂(現・成瀬記念講堂)の内部。
■写真下:左は、同時期の東北帝国大学の理科大学校舎。右は、下落合の金山アトリエ近影。