1927年(昭和2)7月の初め、朝日晃によれば佐伯アトリエClick!を建てるのに関わった大磯の大工の紹介で、佐伯一家は神奈川県中郡大磯町Click!山王町418番地へ家を借りた。大磯に着いてすぐに、佐伯は百日咳が治ったばかりの弥智子を連れて大阪の実家・光徳寺へと出かけ、大磯には米子ひとりが残された。彼女の記憶によれば、佐伯は当初、避暑と静養が目的で別荘地・大磯の家を借りた・・・というように話していたらしい。ところが、大阪からもどったあとも、佐伯自身は大磯に腰を落ち着けず、東京や大阪へしょっちゅう出かけていた。
 このとき佐伯祐三Click!は、二度めの渡仏のための資金集めをしていたのだ。「下落合風景」Click!をはじめ、アトリエで制作した15号から20号の作品群を、兄の祐正が主体となって運営していた「頒布会」を通じて、おもに関西方面を中心に販売していた。20号が200円だったというから、二科展で展示されたばかりの新進画家にしては、かなり高額な設定だ。やがて、大阪の佐伯から大磯の米子のもとへ、「実は十七日に大阪の三越で巴里行のキツプを買ひに行きましたが・・・」で始まる、7月21日付けの驚くべき手紙がとどくことになる。佐伯は米子にまったく相談をせず、二度めのパリ行きを決めてしまっていた。手紙を見ると、細かな段取りのスケジュールまでが記載されている。
 1994年(平成6)の朝日晃『佐伯祐三のパリ』(大日本絵画)からの又引きになるが、毎日新聞社が1957年(昭和32)に出版した「関西洋画壇傑作展」の図録から、米子の述懐を引用してみよう。
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 昭和二年の夏、私を大磯の海岸の宿に残して、ひとり大阪に帰り、その間すっかり用意をすませて、シベリヤ経由の切符を揃えてまいった時、私はびっくり致しました。
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 佐伯は、21日付けの手紙を追いかけるように7月23日に大磯の家へともどり、一家はすぐに下落合の自宅へと引き上げている。つまり、大磯に滞在したのは、わずか1ヶ月足らずということになる。パリへ向け、7月29日に東京駅を出発しているので、ほんとうにあわただしい旅立ちだった。このわずか1週間足らずの間に、佐伯はアトリエを友人の鈴木誠Click!に託し、親しかった先輩の曾宮一念Click!には画材道具一式Click!と、自宅の庭で飼っていたニワトリClick!を贈っている。その様子を、曾宮はあとで形見分けのようだったと振り返っている。
 
 さて、大磯にお住まいの「さいれんと」さんにより、山王町418番地(現・大磯町大磯418番地)の位置が特定できたので、さっそく佐伯の借家跡を散策してきた。ちなみに、わたしは2005年から翌年にかけ、大磯町役場および城山公園(旧・三井別邸)にある郷土資料館へ、それぞれ二度にわたって「山王町418番地」の照会・確認を依頼しているけれど、現在にいたるまでナシのつぶてだ。自治体や公共施設に問い合わせをして、まったくリプライが得られないというのは初めての経験なので、特に記しておきたい。もうひとつ苦言だが、この春、大磯町の観光課へ高麗山から千畳敷山(湘南平)にかけての山桜の開花の様子を問い合わせたら、まったく知らなかった。
 大磯はB29による絨毯爆撃にも遭わず、また東京のように大規模な再開発が行われていないため、戦前の面影を色濃く残した湘南海岸のほぼ真ん中に位置する街だ。小津安二郎の映画『お茶漬の味』Click!(1952年・昭和27)には、下落合とともに大磯も登場するが、下落合の風景は激変しているのに対し、大磯周辺の風情はわたしの子供時代はもちろん、1940年代とさして変わっていない。特に佐伯が滞在した、東海道線の線路際から山側にかけては、昭和初期の面影さえ残っている。そう、佐伯の借りた家は、東海道線のまさに線路際にあった。線路の向こう側には、天王山から高麗山が迫り、少し西寄りの小山には広大な安田善次郎邸が拡がっている。

 
 
 大磯駅から線路際の道を、そのままずっと東北東方向へとたどり、線路向こうに福田恒存邸のあった踏み切り跡のガードを超えると、ほどなく山王町418番地へと行き着く。おそらく、1927年(昭和2)の佐伯一家も、この道筋を通って借家へたどり着いただろう。ちなみに、途中には和館と洋館とがくっついた独特なスパニッシュ風の邸宅があり、わたしが子供のころ、北側の庭の竹薮にいた2mをゆうに超えるアオダイショウ(人間に馴れていて大人しいヘビだった)と何度も遊んだことがある。当時は、オレンジの瓦屋根にベージュの壁色だったが、現在では緑のスレート屋根に変わってしまったのが残念だ。このシャレたスペイン風洋館を、おそらく佐伯一家も眺めていたにちがいない。
 山王町418番地は、ちょうど周囲を道に囲まれた三角形をした土地の、東側の一画だ。(西側半分は417番地) 現在では2軒の家が建っているけれど、佐伯一家が滞在した当時も、おそらく1~2軒の家作だったのだろう。佐伯はここでほとんど暮らすことなく、しょっちゅう出かけていて、家にはおもに米子と弥智子が住んでいた。夏なので、おそらく米子は娘の手を引いて、いまはサーフィンのメッカとなりオオイソポイントやハナミズポイントのある“北浜海岸”か、別荘が林立していた静かな“こゆるぎの浜”Click!を散歩したかもしれない。
 少し南へ歩けば、江戸期の旧・東海道の松並木がそのまま延々と茂り、渚まではそれほど遠くない。日本で初めて開かれた海水浴場で、百日咳が治ったばかりの弥智子を泳がせただろうか? 寄せる波に身体をぶつけて血行を促進し、潮風を深呼吸する海水浴療法は、明治時代から特に肺の疾病には効果があると言われていた。当時、肺結核の転地療養によく海岸が選ばれたゆえんだ。のち上屋敷(あがりやしき)に住むことになる帝大生だった宮崎龍介Click!も、大磯の隣りの平塚に別荘を借りて療養Click!に来ている。波打ち際で遊ぶ弥智子を見ながら、浜辺で写生をする米子の姿が浮かんでくる。足の悪い彼女には、娘を連れて千畳敷山や高麗山を登るのは無理だったろう。
 

 大きくてシャレた別荘が建ち並び、目白文化村の箱根土地も進出していた大磯には、佐伯の画心をそそる鄙びた風景は、おそらくあまり存在しなかっただろう。佐伯が、大磯で仕事をした形跡は見られない。当初、わたしは子供時代の記憶から、「絵馬堂(堂)」Click!は大磯の高麗山のふもと、山王町にもほど近い高来神社の社殿(子供のころは萱葺きだった)ではないか?・・・とも疑ったけれど、似てはいるがまったく別物だった。

■写真上:左は、山王町418番地に通う線路際の小路。右は、1970年(昭和45)前後の大磯駅に近い線路際の小路。ミニスカートのお姉さんがきれいなので、親父のカメラを借りて撮ったものだ。(爆!) 大磯駅の風情は、小津映画に登場する画面とほとんど変わっていない。
■写真中上:左は、1927年(昭和21)7月21日に佐伯祐三が大磯町の山王町418番地に滞在する、妻の米子宛てに出した手紙の封筒。右は、パリ行きを決めたことを伝える中身の手紙。
■写真中下:上は、1946年(昭和21)にB29より撮影された大磯町。下は、山王町417~418番地あたりの現状。大磯の佐伯宅は、電車と汽車の音や振動が相当にうるさかったはずだ。
■写真下:上左は、線路沿いに建つスパニッシュ風の西洋館。上右は、1970年(昭和45)前後に撮影した同邸。当時は、屋根がオレンジ色の瓦で葺かれており、おそらく佐伯一家も目にしているだろう。北側には濃い竹薮が茂り、わたしがよく遊んだ大磯のポイントのひとつだ。下は、第1次渡仏時の帰国直前にイタリアを旅行する佐伯一家のシルエットで、右から佐伯祐三・米子・弥智子。大磯でも駅へ向かう3人の、このような寄り添ううしろ姿がみられただろう。