先日、TVを観ていたら学生たちはなぜ怒らないのか、みんな大人しすぎる・・・というようなことを言う評論家がいて、アジアにおける変革はどの国も学生運動からスタートしているのに、「日本の学生たちは、なぜ起ち上がらないのか不思議だ」と語気荒くコメントをしていた。同じような言葉は、わたしが大学を卒業して10年ほどたった1990年すぎぐらいから言われていたように思う。おそらく、この人物は学生時代に「学生運動」の“現場”とはまったく無縁な生活をしていたか、あえて状況をぜんぜん知ろうともしなかったか、あるいは見て見ぬふりをしていた学生だったのだろう。
 わたしは、1970年代後半から80年代にかけて学生生活を送っているが、いまだ「学生運動」はすぐ近くにある存在だった。当時、わたしの大学には古い学生会館があって、どこか文化系のサークルに入れば学生会館に部室があるのがふつうだった。当然、そこにはセクト(いまの若い子みたいに語尾を上げて発音する)のお兄ちゃんやお姉ちゃんたちも頻繁に出入りしていて、ビラを渡されたりラウンジで捕まったりしながらオルグを受けたものだ。学部の学生自治会に属する委員を含めると、おそらく15人ぐらいのメンバーと顔なじみになっただろうか。
 わたしのサークル部室は確か4階にあり、2階には文化系サークルの団体組織の事務局があって、そこは学内におけるセクトの拠点のひとつでもあった。大学に入って2年目のころだろうか、わたしは4階の部室にいたと思うのだが、階下のほうが少し騒がしい。いつも学生たちはどこかしらで騒いでいるので、そのまま気にせずにいたのだが、あとで聞いたら2階の事務局へ対立するセクトが乱入して、事務局の代表を鉄パイプやバールでメッタ打ちにしていったとのことだった。この代表とは顔なじみで、物静かな性格的にも好きなタイプのお兄ちゃんだったから愕然としてしまった。幸い生命はとりとめ、当時の新聞にも小さなベタ記事が載った程度だった。
 「学生運動」をやるということは、当時はこういうことを指していたのだ。つまり、「学生運動」などやっていなくても、たまたま近くに身を置いた半径十数メートルの範囲で、いわゆるゲバルトなどではなく、生命をねらったテロルが起きてもなんら不思議ではない、まさに命がけの状況だった。テロルの件数こそ激減したけれど、これは現在でもおそらく基本的には変わっていないだろう。学内でなにかの「運動」を起こそうとすれば、さっそくどこかのセクトが介入してくる可能性があるのに変わりはない。もちろん、いまでは運動の主体となるべき学生はほとんどいなくなってしまったのだろうが・・・。マスコミでは俗に「内ゲバ」と呼ばれるけれど、彼らは「党派闘争」と位置づけてその呼称を認めてはいない。それは「内(部)」の「ゲバ(ルト)」などではなく、明らかにテロルだ。
 
 彼らに、「党派闘争」を止揚するよう発言していた知識人(文学者や学者、評論家など)は、当時でもそれほど多くはなかった。中でも、積極的に口を開いて発言していた人は「後難」を怖れてかほとんどおらず、印象に残る人物に久野収や三浦つとむ、そして埴谷雄高Click!などがいただろうか。「結局、スターリンがやったことと同じになっちゃうよ」(もちろん、こんないい加減で稚拙な表現ではない)と、何度か彼らに根気よく語りかけていたのを憶えている。そのころ、『死霊』の第五章が単行本「定本全五章」(講談社)として出てからまだそれほど年月はたっておらず、セクトのお姉ちゃんが「また少し、本でも読んでみようかな。『死霊』五章もまだだし」と、わたしの前を横切っていった時代だった。このお姉ちゃん、けっこうキレイで気になってたりしたのだが。(爆!)
 埴谷雄高(本名・般若豊)が、下落合の目白中学校Click!に入学してきたのは1923年(大正12)の4月で、2学年への編入だった。それまでの1年間は、台湾の中学校ですごしている。在学中から結核に罹患し、卒業したのは1927年(昭和2)だから、近衛家が目白中学校の敷地Click!を手放し、同校が練馬Click!へと移転したあとに卒業したことになり、埴谷は途中で下落合から練馬へと登校先を変えていることになる。その後、彼は1930年(昭和5)に日本大学予科へ入学するけれど、出席日数が足りずに学籍から除名されている。直後に、共産党へ入党(のちに除名)し非合法の地下活動を開始するが、早々に逮捕されて刑務所内での「読書生活」に入ることになる。

 『死霊』がスタートしたのは戦後すぐのころからで、1946年(昭和21)に第一章を発表、1949年(昭和24)に第四章までが完成している。そして、1975年に第五章、1995年に最後の第九章が出版されるまで、実に50年もの歳月をかけてこの小説は書き継がれてきた。まるで、ゲーテの『ファウスト』を髣髴とさせる仕事ぶりだが、『死霊』は未完のままだ。わたしが埴谷雄高を知ったのは、情けないことに彼の作品からではなく、当時の「学生運動」へ積極的に発言している姿からだった。“嘘つきミッちゃん”こと井上光晴Click!を、「全身小説家」と名づけたのも埴谷雄高だ。NHKのドキュメンタリーだったろうか、井上の葬儀で杖にもたれかかりながらガックリと肩を落として座る、埴谷おじいちゃんの姿がいまでも痛々しく印象に残っている。ドイツにゲーテがいて、ロシアにドストエフスキーがいたように、日本には埴谷雄高がいたことがうれしいと、わたしは単純に感じている。
 さて、大正後半に目白中学へと通ってきていた埴谷雄高だが、大正初期とみられる目白中学校の平面図を入手した。お送りくださったのは、目白中学校の後裔である中央大学附属高等学校で教鞭をとられた保坂治朗様Click!だ。現在、保坂様は目白中学校も含めた長い校史をまとめられている。今回の図面が、以前にご紹介した平面図Click!と異なるのは、中国やベトナムからの留学生の受け入れ校である東京同文書院が、第一校舎の1階に1室あるだけだったのが、この平面図では第一校舎の2階にももう1室、つまり2室描かれている点だ。それだけまだ留学生の数がいたころの図面とみられ、保坂様は1915年(大正4)前後と推定されている。以前の図面は大正中期以降、つまり埴谷雄高が通っていたころのキャンパスの様子を記録したものと思われるのだ。
 
 また、保坂様が発見された、たいへん貴重な文書も同時にお送りいただいた。ひとつは、1909年(明治42)4月10日に池袋にある豊島師範学校が、東京同文書院の寄宿舎の一部を借り受けるために東京府知事へ申請した書類。すなわち、豊島師範学校は明治の末ごろ、事務局を目白中学校に置いていた時期があったようだ。もうひとつは、1913年(大正2)3月27日に目白中学の柏原文太郎が、東京府知事宛てに出した「私立目白中学校/校舎増築認可願」だ。おそらく申請時期と増築の坪数からみて、運動場を東西の小運動場と大運動場とに分けることになる、南北に長い1階建ての第二校舎建設の申請ではないかと想定できる。ちょうど埴谷雄高も目にしたであろう、目白中学校の姿が下落合で整いはじめるころの、たいへんめずらしい記録だ。

■写真上:南北の校舎のあったちょうど南に、昭和に入ってから建てられた西洋館がいまも残る。
■写真中上:左は、埴谷雄高。右は、1976年に講談社から出版された『死霊・定本全五章』。
■写真中下:1915年(大正4)前後に作成されたとみられる、目白中学校のキャンパス平面図。
■写真下:左は、1909年(明治42)に豊島師範学校が東京府知事へ提出した、東京同文書院の寄宿舎を借り受ける申請書類。右は、1913年(大正2)に目白中学校の設立者・柏原文太郎が東京府知事へ申請した「校舎増築認可願」。ともに両校の罫紙に書かれており、その仕様も興味深い。