目白学園は、なんともシャレたことをする。いや、「した」といったほうが正確だろうか? いまから19年前の1990年、目白学園に入学してきた学生たちへ、近所の名所や旧跡を紹介するパンフレット・・・というか、もう立派な本である『学園近傍めぐり』(目白学園広報室)を編集して配布していた。北は豊島氏の石神井城Click!から、南は野口英世記念館までカバーしている。
 もちろん、地元の落合地域および周辺域はもっともページを割いて紹介しているのだが、その切り口やテーマ、あるいは“名所”の選び方が、とても意識的で面白い。おそらく、編集者の好みや趣味が色濃く反映しているのだろう。新宿区の公園である御留山Click!や佐伯祐三Click!アトリエ、あるいは中野の哲学堂公園Click!(和田山)が掲載されるのは、当然といえば当然だろう。でも、ときには「おや?」と思える“名所”も混じっていたりする。そのチョイスのしかたが、どこかわたしの趣味や好みに通じていて、ことさら面白く感じるのかもしれない。
 大正期に米国まで輸出されていた、目白学園のある地元の落合大根(沢庵漬け)Click!ではなく、「練馬大根」の記念碑が紹介されているのも楽しくおかしいが、中にはなぜか、洋画家・松本竣介Click!の“お宅訪問”が混じっていたりする。建て替えてしまった個人邸である松本さんちを訪れて、「旧居」として紹介しているのだ。佐伯アトリエの佐伯家や御留山の相馬家Click!とは異なり、松本邸にはいまでもご家族が住まわれているし、新宿区の文化財でも記念物でもない。ふつうのお宅であり、同書が出版されたときは、松本竣介のアトリエはとうに解体されて存在しなかった。よほど、松本竣介がお好きな編集委員、または記者の方がいたのだろう。
 
 松本竣介の「旧居」という表現も、いまだ松本家のご自宅のままなので妙だけれど、このページが“お宅訪問”的なレポートのように感じられて、他の名所・旧跡紹介とは異なり、やはり少々目立つのだ。当然、邸内も撮影しているのだけれど、なにがスゴイって、美術館や画集でしかお目にかかれない松本竣介の代表作が、そのへんの壁にさりげなく架けられたり、床に置かれたりしていること。松本邸なので、当たりまえといえば当たりまえなのだけれど、『Y市の橋』や『N駅近く』、『黒い花』などが、何気なく生活空間に存在しているのに、やはりビックリしてしまう。
 この感覚はずいぶん以前(1980年代半ばごろ)、選挙の投票のためか、あるいは地域のイベントだったろうか区役所の地域出張所へ出かけたら、目の前に50号の佐伯祐三『下落合風景』Click!の「テニス」Click!が無造作に架けられていて、愕然としてしまった感覚に似ている。美術館や画集でいつも観ている絵画が、突然、家の近くの出張所や住宅の部屋に架けられていたら、やっぱり「これは、いったいどうしちゃったの?」と驚いてしまう。佐伯の「テニス」は、おそらく少しでも地域区民の出足を高めるために、新宿区による苦肉の「集客」プロモーションの一環だったのだろう。おかげで目の先10mmほどにも近づいて、『下落合風景』では最大画面の作品を、絵の具の盛り上がりやその剥落まで(このときはいまだ修復がなされていなかった時代だ)、当時からじっくり観察することができた。
 
 一度でいいから、『N駅近く』や『Y市の橋』の架かる部屋で、ゆっくりと鑑賞しながらすごしてみたいものだ。美術館や展覧会とはまったく異なった、もうひとつ別の作品の表情、思いがけない作品の機微が見つかるかもしれない。佐伯の『下落合風景』からは、大正末から昭和初期の下落合に漂っていた“空気”を濃密に感じることができる。松本竣介の「落合風景」Click!からは、下落合で響いていた音は聞こえないかもしれないけれど、吹きぬけた“風”を感じることができるだろう。その風は、戦災の焼け跡の匂いを運んで、どこかキナ臭い香りなのかもしれない。

■写真上:左は、松本邸のとある部屋。『Y市の橋』(1942年)や『顔』(1940年)が架けられている。学生向けパンフレット『学園近傍めぐり』(目白学園広報室・編/1990年)より。右は、1947年(昭和22)に撮影された松本竣介邸。北側に、アトリエと思われる張り出しが確認できる。
■写真中:左は、応接間に架けられた『N駅近く』(1940年)。右は、松本竣介が使っていたイーゼル。画架の手前には、『N駅近く』と同年に描かれた『黒い花』が、さりげなく置かれている。
■写真下:左は、現在の松本邸。右は、『N駅近く』を背にしたアトリエの松本竣介。