-ご乗車まことにありがとうございました。次は下落合~、下落合~でございまーす。
 「やれやれ、ようやく下落合だてんだ。もうすぐ、終点の高田馬場だぜ」
 -西武電車をご利用いただき、ありがとうございました。お忘れ物のないようお乗り換えください。
 「・・・あん? お乗り換え?」
 -次は、終点の下落合~。山手線をご利用の方は、お乗り換えでございまーす。
 「・・・そ、そんな。だってよ、新聞広告には高田馬場まで開通って出てたじゃん、車掌さんよう」
 -省線・高田馬場駅へ向かわれる方は、駅前広場を右へ田島橋を渡り6~7分で到着でーす。
 「おい、車掌っ、人の話を聞けい!」
 -ご不便をおかけし申しわけありません。高田馬場への線路と仮駅は鋭意建設中でございます。
 「ゲゲッ、じゃ、じゃあだんじゃねえや。・・・んで、いつできるんだい?」
 -あと、ちょっと。
 「あとちょっとてえのは、いってえどのぐらいだ? こちとら気が短けえんだよう」
 -ふた月、いや、半年・・・ぐらいかな?」
 「この記事もやたら長えがな、西武電車もそんな気の長えこと言ってんじゃねえよ、ええ?」
 -ほんと、どんどん延長して困ったもんですよね。読むのタイヘン。
 「他人事じゃねえだろ!」
 -・・・・・・小っちゃくてかわいい高田馬場仮駅を、お楽しみに!
 「(爆!)」
  ★
 以前から、西武電気鉄道の開業当初は、氷川明神前の下落合駅Click!が終点(始発)だった・・・という地元の証言や資料を、何度か耳にし、また目にしてきた。西武電鉄は、津田沼の陸軍鉄道第二連隊が「演習」と称して線路を敷設したことになっているけれど、大正末からの線路と貨物輸送の目撃証言が地元にははっきり残っており、また同時期に田島橋が鉄筋コンクリート製の4車線・大型橋梁化されていることを考え合わせると、おそらく戸山ヶ原の膨大な陸軍施設へなんらかの物資(埼玉方面からの大量のセメントまたは多摩川流域からの玉砂利だと推測している)を運搬していたのではないか?・・・という記事Click!も、以前こちらで書いている。ひょっとすると、田島橋の鉄筋コンクリート橋梁化工事にも、陸軍が関与しているのかもしれない。
 そして、陸軍が敷設した線路は、重たい荷物を積載したトラックでも神田川を渡河できる頑強な田島橋から、早稲田通りへと斜めに抜けられるルートが容易に確保できる、下落合の氷川明神前までであって、その先はいまだ線路がつづいてなかった・・・とも解釈している。つまり、下落合駅から先(東側)の線路は陸軍の鉄道第二連隊が敷設する工事マターではなく、西武鉄道が建設工事許可の締め切り期限ギリギリまで工事を行っていたのであり、西武電車の開業日までに工事が間に合わなかったのだ。東京府が、1927年(昭和2)3月12日に鉄道省へ提出した「西武鉄道高田馬場附近工事着手ノ件」報告は、まさに臨時の仮駅設置の工事に関することと思われ、開業わずか1ヶ月前に突貫工事へ取りかかっているのだろう。
※その後の取材で、高田馬場仮駅は山手線土手の東側にももうひとつ設置されていることが判明した。地元の住民は、「高田馬場駅の三段跳び」Click!として記憶している。

 
 そして、「工事が間に合わない」には二重の意味が含まれている。ひとつは、山手線の下をくぐり抜けて省線・高田馬場駅の東口へ乗り入れるという計画自体(当初は目白駅乗り入れ/高田馬場経由の早稲田乗り入れ/直進早稲田乗り入れなど計画は多様)が難航して間に合わなかったこと。もうひとつが、そのために山手線の西側へ急いで設置することになった高田馬場仮駅Click!の建設と、その仮駅へと向かう想定外の線路の敷設が、これまた開業日に間に合わなかったのだ。この間、何度も工事変更の申請が、西武鉄道の社長・指田義雄から鉄道大臣・仙石貢へと提出されている。さて、氷川明神前の下落合駅が終点だった様子について、実際に目撃された方の証言を聞いてみよう。地元の昔語りの資料集である、『私たちの下落合』(2006年)からの引用だ。
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 昭和二年に西武線が開通したのにともない【昭和二年には下落合が始発駅で、昭和三年に高田馬場が始発駅となった】(中略)/当時、下落合の駅は丁度氷川神社の前、神社の南側に位置していました。駅にはホームがあり、電車の折り返しの場もあったので、他の部分よりそこが広くなっていました。そして駅の北側の神社境内に池があったのです。(中略)/西武電車(現在の西武新宿線)は昭和二年に開通し、下落合が始発駅となったのですが、それは短い期間で、翌三年には、始発は高田馬場に移りました。さらにその後ほんの数年で、氷川神社のすぐ南側の下落合駅は廃止され、現在の位置に移ります。 (杉森一雄「落合昔語り」より)
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 氷川明神前の旧・下落合駅は、西隣りの旧・中井駅と同様に島状ホームが採用されていた。下落合駅の近くには、聖母坂上にあった関東バスのターンテーブルClick!を想像させるような、電車の前後の向きを変える「折り返しの場」が設置されていたことがわかる。「翌三年には、始発は高田馬場に移り」と書かれているけれど、このときも山手線の下をくぐり省線・高田馬場駅へと乗り入れたのではない。あくまでも、山手線の西側に高田馬場仮駅ができただけなのだ。

 
 そして、この仮駅も省線・高田馬場駅までまだかなりの距離を残していた。おそらく、神田川へ注いでいた清水川を埋め立てた跡地なので、雨でも降るとジメジメとぬかるんで地盤がゆるかったのだろう、西武鉄道は乗降客の便宜を考え、早稲田通りまで長大な「連絡桟橋」を設置している。高田馬場仮駅で下車した乗客たちは、この長い長い桟橋を歩き早稲田通りを横断して4~5分、ようやく現在のBIGBOXの横手あたりにあった、昭和初期の山手線・高田馬場駅へと到着する。
 西武電鉄の高田馬場仮駅から、早稲田通りまでつづく「連絡桟橋」を描いた、1928年(昭和3)現在の鉄道省指導の「鉄道地図」を入手した。わたしの記事を読んでくださっている方が、マイクロフィルムにかろうじて残された他の資料とともに、わざわざ探し出してくださったのだ。それを見ると、現在の栄通りと山手線との間に長い桟橋が造られているのがわかる。でも、以前にご紹介した「震災復興地図」に描かれた高田馬場仮駅の位置と、今回の「鉄道地図」とは仮駅の位置が異なっている。「震災復興地図」では、仮駅は整流化工事前の神田川をおそらく小さな鉄橋でわたり、川の南側に設置されていたはずだった。ところが、今回の「鉄道地図」では神田川を跨いでおらず、川の北側に仮駅が設置されていたことになっている。そして、川をわたっているのは線路ではなく、歩行者用の長い長い「連絡桟橋」のほうなのだ。

 経済効率を考えるなら、ほんの短い期間だけ使われる高田馬場仮駅への線路なので、わざわざ川を跨ぐ頑強な鉄橋を造って線路と電車を通すよりは、川の手前に仮駅を建設し「連絡桟橋」(木製だったと思われる)で川を跨いだほうが、工事費が少なめで経済的だろう。はたして、高田馬場仮駅への線路は神田川をわたっていないのだろうか、それとも乗客の利便性を考え、できるだけ省線・高田馬場駅へと近づけるために神田川をわたっていたのだろうか?
 氷川明神前の旧・下落合駅から高田馬場仮駅まで、わずか200m弱しか離れていなかったので、わざわざ電車に乗った方など地元にはいない。高田馬場仮駅が神田川の手前か、あるいは向こう側に建設されていたものか、どうやら下落合ではこの疑問を解決できそうにもないのだ。旧・下落合3丁目と4丁目(現・中落合/中井2丁目)あるいは上落合にお住まいの方なら、中井駅から乗車されて高田馬場仮駅を実際にご覧になった方がいらっしゃるだろうか?
 さらに、氷川明神の南側境内を削るように建設された、最初期の旧・下落合駅(双子の中井駅などと共通)の設計図面も入手しているので、そのうちこちらで改めてご紹介したい。

■写真上:左は、1927年(昭和2)の西武電鉄開業時、高田馬場仮駅の完成が間に合わず終点だった氷川明神前の下落合駅跡。駅に隣接して、電車の「折り返し場」も設置されていた。右は、妙正寺川をわたる開業当初の西武電車で、右手に見えるのが中井御霊社あたりの目白崖線。
■写真中上:上は、1927年(昭和2)に西武鉄道が発行した「西武電車沿線図絵」。まだ早稲田までの乗り入れを、西武はあきらめていなかった。下左は、西武鉄道が1925年(大正14)2月5日付けで東京府から受けた井荻-戸塚町(高田馬場)間の免許指令交付票。下右は、鉄道敷設に際し落合町の町長・川村辰三郎が認可した1925年(大正14)10月9日付けの工事承諾書。戸塚町をはじめ沿線の自治体も同時期に工事承諾書を交付しており、この直後から、おそらく落合・戸塚地域でも線路の敷設は開始され、大正末までにはほとんどの線路ができあがり、戸山ヶ原の陸軍施設関連を含むなんらかの貨物・物資の輸送がスタートしていたものと思われる。
■写真中下:上は、神田川の北側に高田馬場仮駅が描かれた、1928年(昭和3)ごろに制作された「鉄道地図」。高田馬場仮駅から早稲田通りまで、エンエンと「連絡桟橋」が設置されている。下左は、おそらく高田馬場仮駅などの建設に関連して東京府が鉄道大臣宛てに提出した、1927年(昭和2)3月12日付けの工事着手報告書。下右は、1929年(昭和4)に作成された「震災復興地図」にみる高田馬場仮駅だが、実際には前年の様子を描写しているものと思われる。
■写真下:西武鉄道の社長・指田義雄が、1925年(大正14)9月19日に鉄道大臣・仙石貢に提出した、工事最終区間の田無-高田馬場間施工認可申請書。ほどなく上記の各自治体の承諾書とともに認可が下り、陸軍の鉄道第二連隊による「演習」工事は急ピッチで進捗しただろう。そして、大正末には線路上を走るおそらく軍用を含む貨物列車が、多くの下落合住民に目撃されることになる。