1,001回目の記事は目白通りを走るアイドル、ダット乗合自動車のバスガールたちからスタート。
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 大正末から昭和初期にかけ、女性あこがれの仕事に「バスガール」があった。いや、戦後もしばらくの間、バスガール(バスガイド)は女性の花形職種だった時代がある。昭和初期では、今日でいうところの女子アナや客室乗務員(スチュワーデス)の人気に匹敵するほどの職業だったろう。省線・目白駅Click!を出発し、目白文化村Click!北側の停留所を経由して練馬方面Click!へ、さらには豊島園へと向かうダット乗合自動車Click!にも、たくさんのバスガールたちが勤務していた。
 容姿端麗で頭がよく、停留所をアナウンスする声にも美しさが求められたバスガールだが、そんな彼女たちがいっせいに起ち上がった労働争議が、1935年(昭和10)ごろの目白通りを舞台に起きている。貴重な情報をお寄せくださったのは、目白通りでダット乗合自動車(1935年/王子環状乗合自動車→1936年/東京環状乗合自動車)に勤務されていたバスガール、上原(旧姓・田中)とし様を母親にもつ小川薫様だ。そして、労働争議の写真を含む、当時の目白通りを走る貴重な乗合自動車の写真を多数ご提供くださった。アルバムごとお貸しくださったのだが、そこに写っている写真類はいずれも貴重なものばかりだ。なぜなら、お母様の仕事がら、昭和初期の目白通り(目白・下落合)や長崎町界隈を走るバスを中心に、周辺の風景があちこちに横溢しているからだ。
 バスガールたちの決起の模様についてお伝えする前に、なぜ労働争議が起きたのかを考えてみたい。昭和に入ってからの労働運動や争議、罷業(ストライキ)、デモなどは当局の弾圧が徹底熾烈をきわめたため、よほど大きな事件・事故Click!でもない限り、ほとんど報道もされなければ、民間の記録としても残っていない。今日、見ることのできる記録は、圧殺する側だった警察(特高含む)の内部資料が主体だ。ダット乗合自動車労働争議の背景には、企業の吸収合併というテーマが絡んでいたようだ。上原とし様は、「ダット乗合自動車が国際興業に吸収合併されるのに反対した」と話されていたようだが、国際興業の前身である第一商会が設立されるのは1940年(昭和15)のことであり、昭和10年前後の状況には当てはまらない。なにか、別の合併話に絡む動きがありそうだ。そこで、ダット乗合自動車の成立した経緯について見てみよう。
  
 
 
 目白駅から練馬駅、さらに豊島園へと向かうバスは、大正期に設立されたダット自動車合資会社によって運営されていた。おそらく、長崎町3923番地にあったダット自動車製造(株)と、高田馬場にあったダット乗合自動車(株)との共同出資によるものと思われる。ダット乗合自動車(株)は、高田馬場駅を起点に早稲田から若松町をめぐるバスの運行をしていた会社だ。大正末か昭和の初期あたりに、目白駅を起点とするダット自動車(資)は、高田馬場駅を起点とするダット乗合自動車(株)へ経営統合されている可能性がある。なぜなら、昭和期に入って写された目白通りのバスには、「ダット自動車」ではなく「ダット乗合自動車」のネームがすでに見えているからだ。上原とし様は、ダット乗合自動車(株)時代にバスガールとして採用されている。
 1933年(昭和8)に親会社であるダット自動車製造が、鮎川コンツェルンの石川島自動車製作所(のちの日本産業)に吸収合併されると、ほどなく1935年(昭和10)にダット乗合自動車にも吸収合併の話が持ちあがる。相手は、王子環状乗合自動車(翌年に東京環状乗合自動車と社名変更)だった。この吸収合併の騒ぎの中で、労働条件の悪化やベースダウンに反発して、「合併反対」のダット乗合自動車労働争議団が結成されたのではないか。でも、吸収合併は強行されダット乗合自動車は消滅した。そこで、職場の待遇改善やベアを要求しつづける闘争を継承した争議団は、名称を東京環状乗合自動車労働争議団(略称:東環争議団)と改めた・・・とわたしは解釈している。そして、争議団のメンバーたちが集まって撮影されたのが、闘争勝利へ向けた下の記念写真だ。

 
 ここに写っている争議団員は、130名(社会情勢を考慮するなら、写真を避けてメンバー全員ではない可能性さえある)を数えるので、当時としてはかなり大規模な労働争議だったと思われる。全体の3分の2をバスガールたちが占め、残りの男性たちはドライバーあるいは整備員、さらには事務職の人たちだろう。○印が上原とし様だが、団員たちの背後にはさまざまなポスターや檄文が貼られているのが見える。その一部を拡大して読み取ったのが、以下の文章だ。
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 弾圧の口実を与へる様な非合行為は避けよ/行動は威嚇を恐れず大勝(胆?)○動敢に
 我々の大勝(胆?)に行動○○反動/を死滅○○勝利の道だ!!/デマ中傷に迷ふな!
 苦難の交渉○/全員緊張○/勝利を○○
 必勝つ/東環争議團
 狸に騙れん!
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 どうやら、東京環状乗合自動車の社長あるいは役員は、下落合のバッケに棲むタヌキさんClick!とは異なり、人を化かしてだます性質(たち)の悪いタヌキだったようなのだ。
 集会のあと、目白通りへデモ行進に繰り出した争議団を、あらかじめ配置されていた警官隊が襲撃し、無抵抗なメンバーを次々と検挙・拘束していった。上原とし様は幸運なことに、ひとり前を歩いていたメンバーが捕まったせいか、直後を歩いていて偶然にも逮捕をまぬがれている。警察によるあからさまな嫌がらせと、見せしめによる弾圧だった。彼女は逮捕こそまぬがれたけれど、その直後に会社から争議団に加入していたこととデモに参加したことを理由に、「1年後には辞めてもらう」という時限つき解雇通告を受けることになった。
 
 
 ここにご紹介している、目白通りや南長崎通り(通称:バス通り)などを走る、昭和初期のダット乗合自動車または東京環状乗合自動車の写真は、アルバムのほんの一部にすぎない。これら超貴重な写真類は「上原としアルバム」と名づけ、これからもこちらの記事で順次ご紹介していこうと考えている。たいせつなアルバムをお貸しいただき、ほんとうにありがとうございました。>小川薫様

■写真上:左は、ダット乗合自動車とともに記念撮影するバスガールたち。右は、「驛白目」へと向かう東京環状乗合自動車の運転席から「よう、きょうは非番? 目白で映画か珈琲かい?」。
■写真中上:上は、1926年(大正15)制作の「長崎町事情明細図」に描かれた長崎町4053番地の「ダット自動車営業所」(左)、長崎町1965番地の「ダット自動車車庫」(中)、長崎町3923番地の「ダット自動車製造工場」(右)。このうち、ダット自動車製造工場は昭和初期に少し西(長崎町4236番地)へと移転している。中左は、長崎町3923番地に設立当初のダット自動車製造工場。中右は、ダット乗合自動車のボンネット前での記念撮影で、右から2人めが上原(旧姓・田中)とし様。当時のバスが、現在のものと比べかなりコンパクトだったのがわかる。下左は、やはりダット乗合自動車とともに写した記念写真で、背後は畑や空き地が多く残る長崎町か練馬界隈と思われる。下右は、南長崎通りあたりを走る東京環状乗合自動車を運転するドライバー。
■写真中下:上は、おそらく1936年(昭和11)に撮影された東京環状乗合自動車労働争議団の記念写真。ダット乗合自動車が消滅したあと、改めて結成されたばかりの「東環争議団」をとらえた貴重な画像だと思われる。下は、争議団の背後に見えている貼り紙やポスターの拡大。
■写真下:上左は、ダット乗合自動車に入社したころの上原とし様(右)と同僚。上右は、南長崎通りClick!の営業所からの情景と思われ、路上には2台の東京環状乗合自動車が写っている。下左は、東環乗合自動車を退職・結婚後の上原とし様(左)とバスガールの後輩。下右は、同じく東環乗合自動車の新しい車体を背景に、同僚のバスガールとドライバー。