きょうの記事は、すっごく長い。(爆!) 佐伯祐三Click!が描いた「下落合風景」Click!で、昨年以来、どこの風景を描いたのかなかなかわからなかった、目白文化村の街並みを描いたとみられる作品について、ようやく合致する描画ポイントを探し出すことができた。空襲を受けているので風景や風情の変化が激しく、また複雑な地籍の分割や統合のやっかいな問題も絡み合って、描画ポイントの確信を持つのにかなり手間どってしまった。おそらく、この風景は第一文化村の外れ、北側に接する二間道路(当初予想した三間道路ではない)から北西を向いて描いたものだ。画面の右手枠外は、目白通りに沿って建設された落合第二~第三府営住宅Click!のエリアだ。またしても、佐伯祐三は目白文化村の外れ、ないしはギリギリの境界あたりを描いていることになる。
 この作品の描画位置がなかなかつかめなかったわたしは、道路や地形、家並みといった風景全体の把握や印象をもとに探すのをやめ、描かれた家々や構造物などを探すための目標=“部品”として、ひとつひとつバラバラに切り離して考えることにした。画面を全体で把握して旧・下落合(現在の中落合・中井2丁目含む)のどこかに当てはめて探そうとするのではなく、画面に描かれているモノをひとつひとつ分解して取り出し、いわば各“部品”を帰納的に探していく方法だ。つまり、周囲の家並みや地形、道路の状況などはとりあえず無視し、描かれた個々の家や対象などに合致するものが、旧・下落合のどこにあるか、ひとつひとつシラミつぶしで探していくやり方だ。以前、久七坂沿いに建っていた「池田邸」Click!の特定でも試みた方法だ。
 具体的には、中央左よりに描かれた特徴のある西洋館ふたつ、左端にある独特な形状の和館、画面中央の右寄りに建っている側面を見せる瀟洒な西洋館、画面右寄りの道路沿いに建つ看板と、その奧に見えている明らかに鳥居のような形状の構造物・・・などなどだ。家のかたちは、1936年(昭和11)の空中写真、および1947年(昭和22)の戦後に撮られた空中写真では空襲から焼け残った家々のエリアを、1軒1軒チェックしながら探してみた。もちろん、箱根土地が1924年(大正13)ごろに作成した「分譲地地割図」Click!、および1938年(昭和13)にいちおう家々の形状まで採集されて作られた「火保図」(あまりアテにはならないが)も、同時に参照している。
 その経緯をエンエンと書きはじめるととんでもなく長くなるので省略するが、それらしい家が見つかったのは、やはり目白文化村Click!だった。中央左よりに描かれている西洋館Click!が、第一文化村を東西(正確には東南-西北)に走る三間道路沿いの建物(立花邸)に酷似している。左端の和館はどうだろうか? まるで寺院か武家屋敷のように、切妻のあるウィングが見えている家屋だ。箱根土地の「分譲地地割図」ではまだ家が存在していないが、1936年(昭和11)の空中写真や2年後の「火保図」を確認すると、第一文化村から第二文化村へと抜ける三間道路沿いに建てられたその住宅には、道路へ向けて突き出している構造物が見えている。住宅総合研究財団が80年代に調査・制作した「住宅分布図」(1989年)は、「火保図」と重ね合わせて住宅の意匠を特定している労作だが、それによるとこの建物(渡辺邸)は和風住宅となっていて一致する。


 描かれた建物のいくつかに、一致する場所が見えてきた。では、次に鳥居のようなフォルムはなんだろうか? 目白文化村界隈に鳥居がある場所は、箱根土地本社の庭である「不動園」Click!の庭園池へ新たに勧請された弁天社と、第一文化村の前谷戸Click!にある弁天池の端に古くから奉られていた弁財天の社殿の2箇所しかない。でも、元・箱根土地本社(佐伯が「下落合風景」を描いていた当時は、すでに箱根土地は国立へと移転したあとで、本社ビルは「中央生命保険倶楽部」となっていた)の大きな煉瓦ビルは見えない。すると、画面やや右よりに見える鳥居は、必然的に前谷戸の弁財天となるのだが、ここでまたやっかいな問題が浮上する。
 戦前の弁財天も、また現在の弁天社でも、鳥居は第一文化村の東西(東南-西北)に走る広い三間道路に向いて設置されていたのであり、中央左よりの西洋館(立花邸)や左端の和館(渡辺邸)がこのように見える北側の道路沿いにも設置されていたという記録は見あたらない。いまは南側の三間道路と水平の位置に鳥居が設置されているが、昔は弁天池のある谷戸へ下りた谷底の池の端に弁財天の社(やしろ)が建っていた・・・というお話は、以前から住民の方々にうかがっていた。では、北側の二間道路に面した鳥居はいったいなんなのだろうか?
 これはわたしの想像だが、谷戸の弁天社へと向かう位置に、大正時代は南側の三間道路へ向いた鳥居ばかりではなく、北側の二間道路沿いにも鳥居が設置されていたのではないか? 社殿のある神域へ立ち入るには、神聖な鳥居をくぐって参詣するのが習わしだ。でも、北側に住む人々、特に府営住宅エリアに住んでいた人々が弁天社の鳥居をくぐるには、第一文化村の三間道路まで大きく迂回をしなければならない。目前の池の端に社殿が見えており、谷戸の斜面ないしは階段(大正時代から階段が設置されていたかどうかまでは不明)を下りればすぐ(40m前後)なのだが、鳥居をくぐって社にお参りするという習いを実行するためには、300m前後も遠まわりをしなければならない。そこで、谷戸北側の尾根上にも鳥居を設置しやしなかっただろうか?
 
 
 
 このように考えてくると、描かれた家々や場所がそれぞれ特定できてくる。画面の左端に描かれているのは和館の渡辺邸、その右手にある黒い下見板外壁と思われる洋館は梶野邸、その背後に見える独特な形状をした大きめな洋館は立花邸、さらに背後に見えている少し低い洋館は小松邸。和館の渡辺邸と下見板の梶野邸の前には、第二文化村へとつづく三間道路(センター通り)があり、また梶野邸と独特な洋館デザインの立花邸のラインには、第一文化村を東西(東南-西北)に横断する三間道路(メインストリート)が通っている。そして手前には前谷戸が口を開けており、弁天社の鳥居が谷をはさんで南北2箇所に設置されていた。
 中央右寄りに見えている洋館と、その背後にチラリと見えている屋根は、岡本邸(初期1軒型の大きな家で、のちに敷地が2分割されて2軒となり、そのうち南側1軒は現存している)と、さらに右側手前の建物は箱根土地が最後まで買収に失敗したエリアで、住宅かまたは建設工事の作業施設のような建物だが、背後に見えている高い屋根は増村邸か千賀邸、右側の道路は第一文化村と第二府営住宅の境界を走る二間道路・・・ということになる。地形的にも、左手(南側)へ向けて少しずつ低くなっているところがピタリと一致している。
 さて最後に、手前に描かれた空地の課題だ。ここは、1923年(大正12)から翌年にかけて埋め立てられた谷戸の西北端にあたり、戦前には大きな永井邸が建っていた敷地だ。でも、1924年(大正13)ごろ箱根土地が作成した「分譲地地割図」に描かれた永井邸が、どこにも見えずに更地となっている。箱根土地の「分譲地地割図」と、1938年(昭和13)に作成された「火保図」とを見比べると、家の規模や形状がまったく違っているのがわかる。つまり、第一文化村が建設された当初の永井邸(敷地が3分割されていた小規模な邸宅の時代)と、昭和10年代にみられる永井邸(敷地がひとつに統合され大規模な邸宅が建てられた時代)とは、まったく別物だったと思われる。
 下落合1601番地すなわち永井邸の敷地は、文化村販売の当初は敷地が3分割されていて、それぞれが「永井博」の土地名義になっている。ところが、3つの敷地が統合されて大きな1軒の邸宅が建つころには、おそらく姻戚(子息ではない)である「永井外吉」という人物が住んでいた。1932年(昭和7)に発行された『落合町誌』にも登場するこの人物は、堤康次郎が社長をつとめる東京護謨株式会社の取締役であり、また堤康次郎の妹婿でもある。また、当時の拓務大臣・永井柳太郎の従弟でもあった。なんだか、堤康次郎の大学-ビジネス-政治人脈がうっすらと透けて見えてくるようだ。つまり、ちょうど佐伯がこの作品を描いた当時、それまでの小さめな「永井博」邸から、大きな「永井外吉」邸へと建て替えられている最中ではなかったか?

 
 そこで、佐伯が描く1926年(大正15)秋以降の第一文化村の風景で、手前の広い敷地(下落合1601番地)の角に設置されている、ひときわ目立つ看板プレートに思いがおよぶ。このプレートには、「永井外吉邸建設予定地」と書かれていやしなかっただろうか? そして、このプレートの東並び、つまりイーゼルを立てた佐伯祐三の背後には、前年に松下春雄Click!が描いた『下落合文化村入口』Click!(1925年)に見えている、「目白文化村入口」の看板が立っていたものと思われる。

■写真上:1926年(大正15)の秋以降に描かれたとみられる、佐伯祐三『下落合風景』。画面の挿入写真は、第一文化村北側の二間道路の描画ポイントと思われる位置から眺めた現状。面白いことに、電力線の電柱は手前に10mほど動いているが、佐伯が描く白くて背が低い電話線の電信柱(今日では通信線用のコンクリート柱)は、佐伯が描いた当時のままの位置に残っている。
■写真中上:上は、箱根土地が1924年(大正13)ごろに作成した「分譲地地割図」。下は、1938年(昭和13)の「火保図」をベースに住宅総合研究財団が80年代に調査・制作した「住宅分布図」。黒い家は西洋館、点々の入った家は和洋折衷館、白い家は和館の分類になっている。
■写真中下:上左は、渡辺邸・梶野邸・立花邸の拡大。梶野邸も当初の姿と、1938年(昭和13)の「火保図」とは形状が変わって見える。上右は、梶野邸・立花邸あたりの現状。中左は、二間道路沿いに建つ鳥居フォルム。中右は、同じく二間道路沿いの永井邸敷地に建つプレート。下左は、三間道路沿いにある谷底から道路面へと移された現在の弁天社。下右は、二間道路から谷戸への階段。左手には永井邸敷地のプレートが、右手には谷底に建立された弁天社の北側鳥居があったと思われる。佐伯が描いた当時、永井博邸から永井外吉邸への建て替えで更地だったと解釈している。
■写真下:上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる描画ポイント。下左は、戦後の1947年(昭和22)まで焼け残っていた立花邸。下右は、初期1軒型・岡本邸から増村邸(千賀邸)あたりの拡大。
■おまけ
 朗報です。☆彡 大正期の目白・下落合風景や甲斐産商店(大黒葡萄酒)を撮影した、甲州市に残る貴重なフィルムClick!が、新宿歴史博物館でもデジタルデータで保存されることが決まりました。すでに甲州市の了解は得られており、近日中に新宿歴史博物館から正式な依頼状が発送される予定だそうです。早ければこの秋には、同館での閲覧ができそうです。ただし、サイトでVODされている編集版のデータではなく、くれぐれもノーカット版でのデータ入手をお願いしたいものです。