以前、古い山手の屋敷町であり空襲をまぬがれた西片町Click!の記事を書いたとき、西片町の町内だけで通用する住所番地がつくられたことをご紹介した。たとえば「い-5号」とか「は-10号」とか、本来の住所としての煩雑な所番地を使用せず、より住民にとってわかりやすい西片住宅街だけの区分け整理による住所がふられていた例だ。多くの郵便も本来の住所番地ではなく、これら西片オリジナルの所番地にもとづいて配達されていた。
 これは別に西片町ばかりでなく、明治以降に開発された山手の住宅街にはよく見られる現象だった。下落合の目白文化村Click!でも、同様に独自の「文化村住所」がふられ、郵便の配達もこれにもとづいて行なわれていた。1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』Click!を見ると、目白文化村ではさまざまな住所表現が用いられていた様子がわかる。本来の「落合町下落合****番地」に加え、「落合町下落合文化村****番地」、「落合町下落合(目白)文化村第XX号」などといった具合だ。この中で、最後の「(目白)文化村第XX号」が同地域ならではの所番地ということになる。たとえば、第二文化村に住んでいた島峯徹Click!の邸で、現在では「延寿東流庭園」Click!となっている敷地は、当初の表記では「下落合(目白)文化村第76号」ということになる。
 目白文化村(第一文化村)の第9号に住んだ会津八一Click!が、全国各地の友人知人宛てに出したハガキの、差出人欄に書かれた(押印された)表現がさまざまで面白い。落合小学校Click!(現・落合第一小学校)の隣りにあった、霞坂の秋艸堂Click!(旧・下落合1296番地)には1922年(大正11)に引っ越してきているが、そこから出したハガキの裏面には「東京市外/落合村小/学校南隣/会津八一」という朱印が押されていた。いまだ住宅が密集していなかった大正期の下落合では、このような住所表記の郵便物でも迷うことなく、ラクラクと配達されていたのだろう。
 「落合村小学校南隣」の印につづき、「東京市外下落合一二九六/会津八一」と印刷されたハガキもみえる。すでに住宅が多く建てられはじめ、「小学校南隣」では新米の配達員が迷ったものか、あるいは郵便局から「先生、お願いだから所番地を書いてくださいよう!」と依頼されたのかもしれない。つづいて、「東京市外落合町/下落合一二九六/秋草堂執事」の印鑑が登場する。当初は、「秋艸堂」ではなく「秋草堂」と表現していた点も面白い。すでに落合村ではなくなり、1924年(大正13)に落合町が成立して以降、大正末期から昭和初期にかけて使われた差出印だ。
 
 
 次に登場するのは、『落合町誌』が編纂されたのと同じ1932年(昭和7)、淀橋区が成立してからあとの住所だ。淀橋区の成立とともに、面積的にも広大な下落合には1丁目から5丁目までの丁目がふられ、霞坂の秋艸堂は下落合3丁目(現・中落合)ということになった。このときのハガキには、手書きで「淀橋区下落合三丁目/一二九六」という表現がみられる。つづいて、おそらく木ないしはラバーで作ったと思われるスタンプ、「東京市淀橋区下落合/三丁目一二九六番地/会津八一」を使いはじめている。このころから、会津はちゃんと彫刻した印鑑ではなく簡易なスタンプを用いるようになった。理由はわからないけれど、当時は急速に拓けつつあった落合地域の住所表記が、クルクルと変わるのにイヤ気が差したものか。あるいは小学校の「騒音」Click!がうるさく、そろそろ霞坂からの転居を考えて、間に合わせに作成したスタンプだったのかもしれない。
 会津八一が、下落合3丁目1296番地(霞坂)から下落合3丁目1321番地の目白文化村(第一文化村)エリアへ引っ越したのは、1935年(昭和10)のことだったのがわかる。同年10月に出された転居通知には、「東京市淀橋区下落合三丁目一三二一番地/目白文化村第九号/会津八一」という表現がみられる。この「目白文化村第九号」という表記が、先に書いた同住宅街の中でのみ通用する独自の住所表記だ。ちなみに、会津は同様の表現をあまりしなかった様子で、のちの文化村秋艸堂Click!から出したハガキには、「東京市淀橋区下落合三丁目/一三二一番地/会津八一」のスタンプを愛用している。目白文化村の独特な地番は、西片町とは異なり戦後になるとかなり廃れていたらしく、昭和初期ごろまで使われていたにすぎないのだろう。
  
  
 さて、会津八一の郵便物を調べていると、ここで悩ましいテーマが浮上してくる。以前、会津八一の不運な引っ越しClick!という記事を書いたことがあるのだが、文化村秋艸堂の所在地であり会津自身が書いている下落合3丁目1321番地という住所は、多くの地図では下落合3丁目1328番地と記載されていて、「1321番地」ではない。これは、1925年(大正14)の「落合町市街図」をはじめ、1930年(昭和5)の「新井1/10000地形図」、1935年(昭和10)・1941年(昭和16)・1947年(昭和22)の「淀橋区詳細図」など一連の地図でも、表記されている地番だ。1321番地は、第一文化村の二間道路Click!を隔てた南側一帯の地番であり、のちに改正道路(山手通り)の工事で3分の1ほどが削り取られてしまうエリアだった。したがって、下落合1321番地に一度引っ越しをした会津は、山手通りの工事で立ち退きを余儀なくされ、改めて1328番地の安食邸Click!を譲り受けて転居、そこを文化村秋艸堂としたのだろう・・・と想定していた。1328番地の同敷地には、当初からの安食邸が建っていたのであり、比較的空き地の多かった1321番地、すなわち旧・箱根土地本社の南・南西側の敷地を求めて家を建てたか、あるいは売り家を買ったと解釈していたのだ。
 それは、のちに文化村秋艸堂と呼ばれる邸の所在地が1328番地だったという、一連の地図に記載された地番を根拠にしていたわけだが、会津は第一文化村の安食邸=目白文化村第9号の家を、引っ越した1935年(昭和10)の当初から、1321番地だと認識して転居通知を作成していたことになる。そして、転居通知は現時点でわたしの知る限り、1935年(昭和10)のこれ1通しか見あたらない。これは、いったいどういうことだろうか? 念のため、1938年(昭和13)に作成された「火保図」を改めて参照してみると、「会津」の名前が採録された同邸は、なんと「1321番地」と記載されている。いずれの地図に記載された地番が正確なのかは即断できないけれど、わたしも1935年(昭和10)前後に行なわれた大規模な地番変更のトラップに、まんまとはまってしまったのだろうか。
 
 
 会津八一の郵便を見ていくと、当時の郵便局の消印も面白い。1929年(昭和4)11月22日付けの消印では「落合局」のスタンプが押されているが、2年後の1931年(昭和6)9月30日付けでは、すでに「落合長崎局」のスタンプに変わっている。落合郵便局は、それまでの下落合郵便局という名称を改め1916年(大正5)に下落合507番地へ設置されているが、1930年(昭和5)に落合長崎郵便局と改称され、場所も下落合567番地へと移転している。
 この「落合長崎局」というネームは、わたしにもたいへん馴染み深い。といっても、わたしの世代は郵便局ではなく、電信電話局(電電公社)の支局名としてだ。親元から独立し、初めてこの地域にアパートを借りた当初、電話の申し込みや料金の払いこみに出かけたのが「落合長崎局」だった。消印に残る落合長崎郵便局のほうは、1960年(昭和35)に廃止されている。

■写真上:会津八一のハガキは裏面に絵が描かれていることが多く、見ていて飽きない。
■写真中上:上左は、『落合町誌』にみる目白文化村の多彩な地番表現。上右は、早稲田中学校に保存されていた1934年(昭和9)制作の内田巌『会津八一』。下は、霞坂秋艸堂の差出人印。
■写真中下:会津八一の郵便にみる、さまざまな差出人の表記。上は下落合1296番地の霞坂秋艸堂から、下は下落合「1321番地」の文化村秋艸堂から出された郵便。
■写真下:上左は1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」の、上右は1938年(昭和13)の「火保図」に採取された会津邸。下は、落合郵便局(左)と落合長崎郵便局(右)の消印。