以前から、中村彝Click!が描いたアトリエ南側の庭の風景をご紹介Click!してきているが、カラー画像が入手できずモノクロで掲載した写真も少なくない。ここで改めて、作品をカラー画像でご紹介しておきたいと思う。ずっとモノクロで掲載してきた作品に、1918年(大正7)ないしは1919年(大正8)に描かれたとされる、上掲の『庭の雪』Click!ないしは『雪の庭』と題する作品をみてみよう。
 この作品の描画年や作品のタイトルが、なぜだか一定していない。2003年(平成15)に発行された「中村彝の全貌」展図録(茨城県立近代美術館)では、作品の写真キャプションでは『庭の雪』とされているが、他の多くの書籍や図録では『雪の庭』と書かれている。そして、制作年も1918年(大正7)と書かれているものと、1919年(大正8)とされているものとの2種類が存在している。「中村彝の全貌」展図録も一定せず、作品を紹介するグラビアや出品目録では「『庭の雪』大正8(1919)年」とされているのに、なぜか年譜では「大正7年」の項目に「『雪の庭』(14.0×23.0)」と記載する齟齬が見られる。『雪の庭』と『庭の雪』が同じ作品なのは、きわめて小さな14.0×23.0cmというキャンバスサイズが双方で一致しているのでも明らかだと思われる。この混乱は同図録だけにとどまらず、中村彝の関連書籍や画集でも見かける現象なのだ。
 さして意味の違わないタイトルのテーマは、とりあえずさて置いて・・・。では、中村彝がアトリエの庭の雪景色を描いたのは、1918年(大正7)の冬なのか、それとも翌年の冬なのかを、今回はちょっと探ってみたいと思う。それには、東京気象台が大正時代に記録した、当時の詳細な気象記録を参照すれば、降雪に関するかなりのことが判明するだろう。すなわち、結果から先に言えば、1918年(大正7)はほとんど積雪がなかった比較的降雪の少ない年であり、翌1919年(大正8)は降雪日が多く、また積雪もかなり多かったとみられる年・・・ということになる。

 わたしは、彝が『庭の雪』(『雪の庭』)を描いたのは、アトリエ南側の50坪の庭をモチーフに一連の「庭園」シリーズを制作した、1918年(大正7)ではないかと考えている。同年中、描かれたような庭の樹木の枝がたわむほどの積雪がある日となると、おのずと描画日が絞られてくる。しかも、降雪の庭には陽が当たっており、彝は飼っていた鳥(インコ?)の籠を庭の枝に吊るしている。つまり、大雪が降った直後には晴れていた日をめやすに、描画日を特定できそうだ。そして、記録をたどってみると、同年に大雪となった日は、12月25日から26日にかけてのほぼ一度しかないのだ。
 この2日だけで、30.8mmの降雪(水)量を記録している。そして、2日つづいた雪の翌日27日は晴れており、作品の風情ともよく一致しているのがわかる。この作品が、1919年(大正8)作とされることがあるのは、強いて想像をたくましくすれば制作をスタートしたのが前年の暮れも押しつまった時期であり、仕上げたのが翌年の初めだから・・・と考えると、なんとなくツジツマが合うようにも思えるのだが、キャンバスサイズがあまりにも小さいことを考慮すると、やはり1918年(大正7)の年内に描いてしまったと考えるほうが自然だ。余談だけれど、彝のいくつかの年譜で、1918年(大正7)3月に「雪の日」をスケッチしていることになっているが、同年の3月に雪は一度も降ってはいない。「雪の日」のスケッチは、同年2月以前の誤りではないかと思われる。

 さて、彝が描いたもうひとつの作品に、やはり積雪の直後に陽の当たったメーヤー館Click!を描いた、1919~20年(大正8~9)の『風景』Click!がある。わたしは、同作は1919年(大正8)に制作をスタートし、翌1920年(大正9)に完成した作品ではないかと考えている。なぜなら、彝アトリエのすぐ北側にあるメーヤー館を、好んでモチーフ(『目白の冬』Click!)に取り上げたのが同時期であり、同作のために彝は頻繁に同館をスケッチしに出かけているからだ。もっとも、スケッチに出るといっても、彝アトリエの玄関を出て北へ30~40mほど歩いた地点へ、イーゼルを立てたにすぎないのだけれど・・・。同年12月の気象記録から、降雪日を確認してみよう。カッコ内は、当日の降雪(水)量だ。
 ●12月13日 雪(20.4mm)
 ●12月14日 雪(10.6mm)
 ●12月16日 雪(7.6mm)
 ●12月28日 雪(18.2mm)
 12月13~14日と16日にはつづけて降雪があるものの、間にはさまる15日は小雨もよいの1日となっているので、前日までの雪は多少溶けたかもしれない。ただし、翌16日には再び降雪しているので、どうやらこのあたりが怪しそうだ。12月28日にも積もりそうな降雪があるのだが、彝は12月27日から大晦日の31日までアトリエへ籠もって『雉子の静物』の制作に没頭しており、メーヤー館を描きに外出したとは考えにくい。そして、12月16日の翌日、17日の天気は晴れており、『風景』に描かれた陽の当たるメーヤー館とも風情が一致している。
 
 『風景』に描かれた、雪の積もるメーヤー館の描画ポイントは、同館の角度や屋根裏部屋の切妻屋根、あるいは煙突などの見え方から、『目白の冬』よりもさらに北へ10mほど歩いた、路地がいくつか西へと通ううちの1本へ入り込んだあたりではないかと思われる。旧・英語学校の屋根は右手の生け垣に隠れて見えず、『目白の冬』に描かれた元結い工場の干し場は、左手の生け垣に隠れて見えない。彝が同作を描いた時期、当の目白福音教会の宣教師館(メーヤー館)では、間近に迫ったクリスマスの集いClick!や飾りつけの準備で、バタバタと忙しかったに違いない。

■写真上:1918年(大正7)に制作されたとみられる、中村彝の『庭の雪』ないしは『雪の庭』。
■写真中上:1918年(大正7)の暮れから、1919年(大正8)にかけて描かれた中村彝の『風景』。
■写真中下:『風景』と『目白の冬』の、目白福音教会・宣教師館(メーヤー館)の各描画ポイント。
■写真下:これまでカラーでご紹介できなかった作品で、左は1916年(大正5)のアトリエ竣工直後に描かれた『庭の一隅』、右は1918年(大正7)制作の木蔭に憩う女性の描かれた『風景』。