佐伯祐三Click!に佐伯米子Click!、そして佐伯弥智子Click!の3人が眠る墓所が、東京の四ッ谷駅前にあることをつい最近知った。大阪・中津の光徳寺Click!にあるのは、佐伯祐三のみが眠る墓であり、下落合で暮らした家族3人が眠る墓所ではない。いつも、当サイトで書かせていただいている人々なので、さっそく麹町の心法寺へ出かけ、親族以外は原則立入り禁止の墓地へ特別に入れていただき、佐伯一家の墓参をはたした。
 江戸期の火災や地震Click!、関東大震災Click!や空襲で寺が次々と東京郊外へ移転し、心法寺は1500年代末と新しい創建であるにもかかわらず、現在の千代田区内ではもっとも古い寺院となっている。心法寺の本堂は、1945年(昭和20)5月25日のB29が麹町へも墜落した山手空襲Click!で焼けているのだが、親父の書棚を整理していたら、たまたま戦前の本堂の写真が出てきた。きっと親父も、戦前に心法寺を訪れていたのだろう。その写真を見ると、佐伯が描く『堂(絵馬堂)』Click!(1926年ごろ)の意匠を巨大化させたようなかたちをしていて面白い。ちなみに、同本堂が空襲で焼けたのは山手空襲(5月25日)であり、東京大空襲Click!(3月10日)で焼けたとする資料がみえるけれど明らかに誤りだ。東京大空襲の際、山手である麹町は爆撃を受けていない。
 墓地は本堂の裏手、境内の北西側に拡がっている。佐伯家の墓標は、正面に「佐伯家之墓」と太い書体で彫刻されており、黒が濃すぎない御影の墓石が雨に濡れて美しい。墓石の左側面には、右から左へ「佐伯祐三 昭和三年八月十五日歿/佐伯米子 昭和四十七年十一月十三日歿/佐伯弥智子 昭和三年八月三十日歿」と彫られ、右側面には「佐伯米子建之」と刻まれている。
 
 1928年(昭和3)の10月、佐伯と弥智子の遺骨を抱えて帰国した米子夫人は、大阪の光徳寺へ佐伯の遺骨の一部を葬り、残りの遺骨と弥智子の遺骨とを東京へ持ち帰っていた。おそらく、ふたりの遺骨は戦後まで彼女の身近に、つまり下落合の佐伯アトリエにずっと置かれていたと思われる。そして、米子は生前に心法寺へ墓を建立し、佐伯と弥智子の遺骨をすぐに葬ったか、あるいは遺言により自身が死去するとともに、3人の遺骨を同時に納めてもらったかしたのだろう。後者の可能性が高そうなのは、墓誌に刻まれた名前の順番だ。先に死去している佐伯祐三と弥智子の名前の真ん中に、佐伯米子の名前および歿年が刻まれているからだ。1972年(昭和47)11月13日に米子が亡くなると、3人は44年ぶりに黄泉でようやく再会できたことになる。
 お参り当日は雨降りで、墓石の前面が水びたしだったため線香を供えるのはあきらめたのだけれど、花屋さんで“バーミリオン”を1色だけアクセントに混ぜてもらった花束を供えてきた。あいにく、会社の名刺しか持ち合わせていなかったが、改めて佐伯一家への挨拶を済ませると、戦後はコンクリート造りの耐火建築に生まれ変わった、心法寺の大きな本堂を見あげながら帰途についた。
 あいにくの大雨で、心法寺の墓地は午後3時なのに薄闇につつまれていた。佐伯一家の墓を撮影した写真を、帰宅後に改めて仔細に見てみると、下落合の古い建築や家並み、中村彝アトリエClick!などを撮影すると、ときどきとらえられる球状の強い発光体が写っていた。しかも、大×2つと小×1つなのが、なんとも偶然にしては興味深い。ww
 
 来年の3月27日~5月9日に、新宿歴史博物館で予定されている「佐伯祐三と新宿の画家たち」展(仮)は、佐伯の作品がかなり集まっているので純粋に「下落合をめぐる佐伯祐三」展(仮:勝手に名づけてます/爆!)とし、佐伯との関わりが深い1930年協会などの画家たちの展覧会は、また別の継続企画で・・・ということになった。今後は、佐伯の周辺だけでなく、落合地域をはじめ新宿区に居住して仕事をした画家たちの展覧会が、同館で頻繁に開催されることになりそうで楽しみだ。

■写真上:麹町の心法寺に建立されている、佐伯祐三・佐伯米子・佐伯弥智子の墓標。
■写真中:左は現在の、右は空襲による焼失前の1936年(昭和11)に撮られた心法寺本堂。
■写真下:左は、墓石の左側面に彫られた佐伯一家3人の墓誌。右は、墓石の右側面に刻まれた「佐伯米子建之」の文字。墓参当日はかなり薄暗く、右側面の建立者名が鮮明に撮影できなかったため、新宿歴史博物館の学芸員の方が晴天時に撮影されたものを拝借した。