小島善太郎の自宅が、当初はどうやら下落合の西部、現在の中井2丁目の丘上か中腹にあった様子をご紹介Click!したが、1968年(昭和43)に出版された『若き日の自画像』(雪華社)には、明治期から大正初期にかけての下落合をめぐる興味深い記述がつづく。この時期、小島一家は目白崖線の下、妙正寺川の沿岸に引っ越している。
 大正期後半から昭和にかけて、落合地域には宅地化が進むとともに次々と銭湯がオープンするのだけれど、それ以前には銭湯ではなく風呂屋(田舎風呂)と呼ばれる施設が点在していた。銭湯のような造りの建物ではなく、ふつうの家や小屋を大きめの風呂場へ改造しただけのもので、付近で農作業を終えた農民たちが、汗や土埃を落とすために利用する風呂屋だった。寺斉橋の上流、バッケ堰の近くにあった水車場近くにも、そのような風呂屋が存在していた。ちなみに、下落合の氷川明神社に隣接して風呂屋が開設されていたのも、いつかご紹介Click!したことがある。
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 水車場の半丁ばかり北の路端に田舎風呂があった。風呂場とは云え、旧水車場のものを土地の大工が借り受け家風呂を加え、風呂屋を開業したもので、一つの風呂に、漸く三人這入れると云う小屋がけのものだった。自分達も其処に浴りに行っていた。その風呂場を父が借りて移転したのは、兄の家初(ママ:出)後初霜を見た頃の事であった。行商の品物も出荷の少なくなる季節でもあり、父は営みやすい手内職とも考えたらしい。一方自分は、柏木に店を持つ父の知人だと云う八百屋に、一時の手伝いと望まれ、毎日自家から通うことになった。
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 ここで、小島家は風呂屋を借りて一家で移り住んでいるようなのだが、このあとにも別の家と思われる記述が出てくるので、下落合内で何度か引っ越しを重ねていたらしい。柏木という旧地名が出てくるけれど、現在の東中野駅に隣接した地域のことだ。この時代、甲武鉄道(中央線)の東中野駅はいまだ柏木駅と呼ばれていた。水車場を改造した風呂屋の位置は、ちょうど稼働中の水車場から北へ50mほどのところにあったと記されているが、明治末の新井1/10,000地形図を参照すると、バッケ堰の下流で妙正寺川が二又に分かれ、大きく湾曲した流れが見えている。このどこかに、旧水車場が設置されていたのだろう。田島橋の南詰めに建てられた目白変電所Click!(1913年築)へと向かう、東京電燈・谷村線の高圧線鉄塔Click!がそろそろ建てられそうな時期の情景だ。
 
 小島はこの時期、今日でいうアルバイトを繰り返しては家計を助けている。父親が足にケガして働けなくなると、風呂屋の自宅から通える駅の踏み切り番のアルバイトをはじめた。小島はこの駅名を明らかにしていないが、その様子から大久保駅か柏木駅(東中野駅)ではないかと思われる。
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 親子五人が米の無いことにおびえている。僕は米櫃の蓋の音を聞く度に不安というより恐怖を覚え心の底で叩かれている思いがした。何処か金のとれる所はないものかとあせった。父から恩顧を受けたという人が、駅の踏切り番ならあるが日給三十銭だと云った。手伝いの収入より三倍である。僕はよろこんだ。当時の鉄道員の体格検査を受けると、毎朝六時勤務という事になった。靴を買う金も無く草履で通うことにし、朝は暗いうちに出かけた。
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 でも、せっかく決まった踏み切り番なのだが、わずか1週間でクビになってしまう。肋膜に罹患したことのある、小島の病歴がひっかかったのだ。その後、小島一家はさらに困窮していった。
 ようやく道が拓けたのは、大久保の中村覚陸軍大将邸へ書生として住みこみはじめてからであり、中村邸から谷中の太平洋画会研究所へ、つづいて日本美術院や溜池の葵橋洋画研究所などへ通っている。小島は、大久保の中村邸から戸山ヶ原へ写生に出るついでに、下落合の自宅へ頻繁に立ち寄っている。大久保から、のちに陸軍科学研究所や陸軍技術本部の施設が建設される、戸山ヶ原の西端(現・西戸山一帯)から落合地域へとつづく当時の風情を見てみよう。
 
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 大久保から落合に通ずる戸山ヶ原の西端。道に面して牧場が楢林に囲まれ、畠から林越しに牛と牧舎が見える。その道を落合の方に向かうとだらだら坂で、東側は丘、丘につづいて杉林があり道が暗かった。丘には樫の木が鬱蒼として根張りを丘なりに張り合って見せ、西に沿って降りた地平には大欅が立ち並んで、間に檜、楢、杉等が麓まで続いている。欅も楢も霜に耐え兼ね、葉が吹く風に舞って灰色の裸木が親しい落着きを見せていた。/六部(ママ)ばかり描いた油絵をとも角母に見せ度と思い写生を終ると、そこから自家迄十分の道を急いだ。
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 小島が描写しているのは、山手線をはさんだ戸山ヶ原の西側、大久保駅から百人町の北側に展開していた一帯の風景だ。「落合に通ずる」道とは、現在の小滝橋へと抜ける戸山ヶ原の西に接した南北道のことだろう。1918年(大正7)の新井1/10,000地形図を参照すると、この南北道沿いの戸山ヶ原には、柵で囲まれた乳牛を飼育する「東京牧場」Click!らしい記載が2ヶ所見られる。戸山ヶ原には山手線の東側、西大久保界隈にも牧場が点在していた。また、東に見える丘とは、山手線の西側に接した高田馬場駅の南に拡がる丘陵地帯のことだ。
 
 小島は、「戸山ヶ原風景」などとタイトルされた作品は別にして、落合地域を含めた雑木林あるいは丘陵地帯の風景画に、「落合風景」というような地名を含めた具体的な画名を付けていない。ほとんどの初期作が、一般的かつ抽象的なタイトルとなっている。1913年(大正2)に制作された『目白駅より高田馬場望む』というような画題のほうが、むしろ例外なのだ。

■写真上:ビルの建て替えなどで建物が解体されると、とたんに昔日の戸山ヶ原の風情が顔を見せる。旧・戸山ヶ原の西端、大久保駅の北西部にて。
■写真中上:左は、1925年(大正14)の新井1/10,000地形図改訂版に描かれた水車場あたりの様子。東京電燈・谷村線が引かれたあとの姿だが、妙正寺川の風情は変わっていない。右は、1937年(昭和12)に撮影された洪水の妙正寺川。同川の整流化(直線化)工事を終えたあとで、寺斉橋から上流を撮影しているが、いまだ銭湯ではなく小規模な風呂屋の看板が見られる。
■写真中下:左は、1915年(大正4)制作の小島善太郎『晩秋』。右は、1918年(大正7)の新井1/10,000地形図にみる戸山ヶ原西端。小滝橋へ抜ける道路に面し、牧場らしい木柵が見える。
■写真下:左は、明治期に撮影された戸山ヶ原。右は、大正期の増水した妙正寺川。