1945年(昭和20)5月25日の夜半、高田町の学習院下に撃墜されたB29が墜落したことは、以前に記事Click!へ書いた。それよりも20年ほどさかのぼった大正時代の末、飛行機が下落合へ墜ちてきたことはあまり知られていない。
 1925年(大正14)3月6日の夕刻、目白崖線の丘上に墜落したのは軍用機ではなく、当時から東京上空をかなりの頻度で飛行しはじめていた民間の航空機だ。この日、同機をチャーターしていたのは、おそらく新宿駅の近くにオープンしたばかりの「カフェーブラヂル」という喫茶店だった。1925年(大正14)3月7日に発行された、読売新聞の三面記事から引用してみよう。
  ▼
 学校え飛行機/飛行士軽傷す
 六日午後六時二十分(、)市外下落合二二一四研心学園校庭に(、)市外代々木馬爪飛行研究所の二等飛行士矢部喜男(二一) 同乗者名方坦(五五)の飛行機が不時着陸し(、)機体の下翼を破壊し(、)矢部氏は上唇に負傷した(。)原因は此日カフェー、ブラヂルの宣伝中(、)発動機に故障が出来た為めだと
  ▲
 墜落した飛行機はもちろん複葉機で、「機体の下翼を破壊」したと書いてあるから真っ逆さまに墜ちたのではなく、着陸態勢をとったまま地面にたたきつけられたのだろう。当時の民間で使われていた複葉機は、せいぜい時速150kmも出れば優れた性能だったろうから、エンジントラブルが起きても失速さえしなければ、なんとか態勢をととのえて不時着できるだけのコントロールができたのだと思われる。トラブルが発生したとき、パイロットは上空から闇に包まれはじめた目白崖線沿いを見まわして、まるで半島のように突き出たところに薄っすらと見えている、大きな空き地か草原のようなスペースへ着陸しようと機首を向けたのだろう。
 でも、それは空き地でも草原でもなく、研心学園の広い校庭だった。パイロットは、グラウンドへの軟着陸を試みたのだろうがうまくいかず、地面に強く衝突してしまったのだ。研心学園とは、1923年(大正12)に佐藤重遠・フユ夫妻によって下落合に創設された私立学校で、同年に城北学園という名前に改称した、のちの目白学園・目白大学Click!のことだ。
 
 「カフェーブラジル」の宣伝とは、もちろん上空から宣伝ビラをまいていたのだ。広告チラシの散布は、大正末から昭和に入って戦後もしばらくたったころまで、かなり一般的な宣伝手法だった。空から落ちてきたビラを、大人も子供も拾って家に持ち帰ることから、新聞やラジオなどのマス媒体とは異なり、局所的あるいは地域限定的な宣伝効果が高いといわれていた。
 飛行機によるビラまきは宣伝広告ばかりでなく、1936年(昭和11)の二二六事件Click!の際には「兵ニ告グ」ビラが陸軍航空隊によってまかれ、また1945年(昭和20)の米軍による空襲の前後にもB29から大量にビラがまかれている。軍や警察から「謀略ビラ」と呼ばれたそれらは、見つけしだい当局へとどけ出るよう言われていたようだが、すべてを回収することなど不可能だったろう。わたしが子供のころは、セスナ機からスピーカーでデパートなどの売り出し広告が流されていたのを憶えているけれど、ほどなく騒音防止のために禁止された。
 さて、「カフェーブラジル」の宣伝飛行機が墜ちた研心学園(現・目白学園)だが、同校は創立とほぼ同時に、地元の落合村から校舎の賃借を依頼されている。先にもご紹介Click!したように、1923年(大正12)の関東大震災Click!直後から落合村の人口は急増し、小学校の教室が絶対的に不足しはじめたからだ。翌年には、落合小学校Click!(現・落合第一小学校)のキャパシティでは間に合わず、あちこちに臨時の分教場Click!を設置するとともに、上落合の寺斉橋Click!付近へ落合第二小学校Click!(現・落合第五小学校)の新設が計画されている。このとき、研心学園の校舎には、落合小学校からあふれた生徒たちが100人以上も通っていた。
 

 研心学園の校舎を借りていた落合町(1924年2月~)では、貸借料が当初の予想よりもはるかに高額になってきたため、大急ぎで新たに落合第二小学校を建設する計画が浮上したものだろう。1924年(大正13)6月22日に発行された、東京朝日新聞の記事から引用してみよう。
  ▼
 落合町 町会議員総会
 二十一日午前十時から町役場に議員総会を開き (一)一校新設の件 (ニ)研心学園に対する借舎料協定に関する件を付議し、具体的決定を与えず散会したが (ニ)は予て一校新設の予定上急激に増ゑた児童百余名を研心学園の校舎を借受け収容して居た処 借舎料は町の意表を出づる高値で協定する必要を生じた為め (一)は一校新設の実現を急がふといふのが要点
  ▲
 落合第二小学校は、1924年(大正)度に7万円の予算が落合町で計上され、翌年の1月に竣工している。また、落合(第一)小学校も同時進行で大規模化のリニューアルが進められ、1927年(昭和2)になってようやく新校舎が落成Click!した。
 研心学園の校庭へ、飛行機が墜落したのは午後6時20分ごろなので、校舎にはすでに落合小学校の生徒たちの姿はなかっただろう。もしまっ昼間、同学園の校庭へ突然こんなものが降ってきたら、さっそく先生も生徒たちも授業など放り出して、飛行機見物で1日が終わってしまったのは想像に難くない。読売新聞は、翌日に起きたであろう落合町の大騒ぎは記録していないが、きっと仕事を放り出した住民や子供たちが、あちこちからウキウキした気分で研心学園へ見物にやってきたにちがいないのだ。なぜなら、翌3月7日は土曜日で午後からは休みだったのだから。
 
 大正末になると、住宅地の開発計画においても盛んに飛行機が活躍するようになる。開発予定地の把握や、事業の進捗などを確認するために、飛行機から撮影された現地写真が活用された。箱根土地の堤康次郎Click!も、国立Click!の開発では飛行機からの視察を希望しているが、部下に止められてついに実現しなかった。もし、堤康次郎が飛行機を飛ばして目白文化村Click!や国立、大泉学園Click!などを低空から撮影してくれていたらと思うと残念でならない。
 当時、飛行機はいつ墜ちるかわからない不安定な乗り物というイメージが強く、企業の危機管理意識からすれば部下の進言は「もっともなこと」だったのだろう。事実、しょっちゅう墜ちたのだ。

◆写真上:中井(下落合)御霊社裏の坂道から、研心学園(現・目白学園=目白大学)を望む。
◆写真中上:左は、1925年(大正14)3月7日発行の読売新聞の記事。右は、川西航空(のち日本航空)が1920年(大正9)に製造した2人乗りの民間飛行機「川西一型」。
◆写真中下:上左は、1924年(大正13)6月22日に発行された東京朝日新聞の記事。上右は、1925年(大正14)作成の「新井1/10,000地形図」に収録された墜落現場の研心学園。下は、1924年(大正13)1月に竣工した落合第二小学校(現・落合第五小学校)。
◆写真下:宅地開発に航空機が活用されはじめた事例で、左はまだ空き地が目立つ1936年(昭和11)の郊外住宅地・田園調布、右は開発がスタートして間もない同年撮影の常盤台。