以前、彦乃との逢瀬の場として、林泉園Click!にもほど近い下落合370番地の隠れ家で暮らしていた竹久夢二Click!についてはご紹介している。この番地は、わざわざ「彦乃のゆふれい」さんがあの世から化けて出て・・・いや、ご訪問いただいてコメント欄へ書きこんでくださったものだ。ひょっとすると、訪問者としてカウントされなかったのかもしれないけれど・・・。w
 その竹久夢二の“後継者”とでもいうべき、蕗谷虹児も下落合に住んでいた。戦前に少女時代を送られた方なら、「少女画報」や「少女倶楽部」あるいは「令女界」、東京朝日新聞などで、虹児の作品は必ず目にされていると思う。いや、読書好きな方なら、吉屋信子Click!などの本の挿絵などでも彼の作品はお馴染みだろう。いまでも、明らかに虹児を意識したようなノスタルジックな少女画を目にすることがある。わたしは、戦前の画家というイメージが強かったのだが、戦後もずっと活躍をつづけ、アルバムジャケットなども手がけているのを知って驚いた。
 蕗谷虹児のアトリエが建っていたのは、曾宮一念Click!アトリエの北西隣りにあたる落合町下落合622番地、1932年(昭和7)より淀橋区下落合2丁目622番地となった敷地だ。ちょうど、森田亀之助Click!や里見勝蔵Click!が暮らした邸の、すぐ南側にあたる。佐伯祐三Click!や牧野虎雄Click!、片多徳郎Click!のアトリエもすぐ近くだ。以前、こちらで曾宮一念との確執でご紹介した、日本画家・川村東陽Click!邸の跡地が分譲され、そのうちのひとつに蕗谷アトリエは建っていた。竹久夢二が下落合340番地で、親の目をぬすみ日本橋から通ってくる彦乃との甘い暮らしを送っていたとき、わずか5年後の1920年(大正9)、鷹揚に「少女画報」編集部へ紹介した駆け出しの蕗谷が、夢二の人気を大きく凌駕する画家になろうとは、夢にも思っていなかっただろう。
 
 
 亀高文子の先夫・渡辺與平Click!にはじまり、竹久夢二へと受け継がれた少女向けの挿画やイラスト/デザインは、大正期後半から顕著になる夢二人気の急速な衰えとともに、入れ替わるように登場した蕗谷虹児の活躍で、ひとつの完成形をみることになる。蕗谷の創作活動は、夢二以上のまさに一世を風靡するような活躍となった。当初は、夢二を強く意識したような作品が目立つのだが、すぐに虹児美人とでもいうべき彼ならではの少女像あるいは女性像が完成されていく。それは、夢二の女性像に比べ、その表情やコスチュームがはるかにモダンで、夢二が内向的で静的な女性像を描いたのに対し、虹児は明るく活動的な女性像を得意として数多く描いている。それが、大正後半から昭和初期にかけ、和から洋へと生活の意匠が急激にシフトしつつある環境の中、洋装で街を闊歩しはじめた多くの女性たちに支持されたものだろう。
 蕗谷虹児は、結果的に夢二から次々と仕事を奪っていくような状況になってしまったことを、のちのちまでかなり気にしていたらしい。彼は、常に夢二を立てるような言動を繰り返しており、生涯にわたり「夢二先生」を師として仰いでいたようだ。また、体調のすぐれない夢二を、虹児は多忙な仕事の合い間をぬって、何度か本郷の菊富士ホテルへ見舞っている。
 出版会では超売れっ子になっていた虹児だが、本格的なタブロー画家への夢は断ちがたく、1925年(大正14)9月に借金までして、夢二や野口雨情などに送られながらパリへと旅立つ。佐伯祐三がパリで、ちょうど帰国を考えはじめていたころ、虹児は入れ違うように箱根丸でマルセイユへと到着している。でも、日本の出版社は彼を放ってはおかず、雑誌の装丁や挿画の仕事がパリまで追いかけてくることになった。その仕事の合い間をぬって、虹児はタブローの勉強に没頭する。
 
 
 虹児がパリで出入りしていたのは、佐伯祐三が近寄らなかった日本人グループ、薩摩治郎八Click!=藤田嗣治サロンだった。ここでもご紹介した石黒敬七Click!などとともに、サロン・ドートンヌやサロン・ナショナルなどへ作品を応募している。佐伯とは異なり、虹児は1926年(大正15)にサロン・ドートンヌに1点とサロン・ナショナルに2点、翌1927年(昭和2)にも同じく両展で3点が入選するなど、パリの展覧会へ毎年入選を繰り返す優れた画才を発揮している。ただし、もともと最初から洋画をベースとして出発した佐伯とは異なり、新潟出身の虹児は日本画家・尾竹竹坡の門下生だったこともあり、日本画の表現がベースとなっていたためパリの審査員の目にはその画面がより新鮮に映った・・・という側面も、少しは考慮しなければならないだろう。
 1929年(昭和4)に、虹児の絵が好きだった魯迅Click!は上海で『蕗谷虹児画選』を出版し、同時に虹児の代表的な詩歌をいくつか中国語に訳して掲載した。また、パリではシヴィ画廊で虹児の作品32点を集めた個展が開催されるなど、その人気はかなり大きな拡がりをみせている。だが、世界恐慌の影響で、虹児は同年の8月にシベリア鉄道に乗って帰国することになるのだが、彼を待ちうけていたのは、以前にも増して超多忙な出版社からの仕事だった。この時期、タブローの仕事ができるのを期待していたと思われる彼だが、世間からは相変わらず装丁や挿画の画家として見られていたようだ。特に熱狂的なファンたちは、虹児が帰国して新しい少女像・女性像を描いてくれるのを心待ちにしていたのだろう。帰国後、虹児が下落合へと引越してきたのは、二度めの結婚をした1933年(昭和8)前後ではないかと思われる。撮影された当時の写真を見ると、中庭のある和室と洋室とが写っているので、下落合の邸は和洋折衷住宅ではなかっただろうか。
 
 
 
 虹児は、さまざまな歌曲の作詞家としても知られている。渡欧直前の1924年(大正13)に、「令女界」誌上へ発表した「花嫁人形」Click!は、その後も長く唄いつづけられることになった。
 ♪金襴緞子の帯しめながら 花嫁御寮はなぜ泣くのだろ
 ♪文金島田に髪結ひながら 花嫁御寮はなぜ泣くのだろ
 虹児が下落合へ引っ越してきてから5~6年がすぎると、このような「軟弱」な歌は軍部の意向でラジオからは徐々に流れなくなっていった。第1次近衛内閣Click!のもとで国家総動員体制が敷かれると、「戦意高揚」と「銃後の守り」を強調する歌ばかりがラジオから流れはじめる。岡本一平Click!が作詞し、徳山璉(たまき)Click!が唄った「隣組(となりぐみ)」Click!もそのうちのひとつだ。
 ♪とんとんとんからりと 隣組 格子を開ければ 顔なじみ
 ♪廻して頂戴 回覧板 知らせられたり 知らせたり
 この曲を唄った徳山璉も、中村彝Click!アトリエ(当時は鈴木誠Click!アトリエ)の北側、蕗谷アトリエから東へわずか500mほどの下落合502番地に住んでいた。
 1944年(昭和19)9月、虹児は空襲が予想される下落合から神奈川県の山北へと疎開している。1945年(昭和20)5月25日の山手空襲Click!で、下落合のアトリエは全焼。曾宮一念と同じように、疎開先へそのまま住み着いてしまった蕗谷虹児は、二度と下落合へもどることはなかった。

◆写真上:1944年(昭和19)9月まで住んだ、下落合622番地の蕗谷虹児アトリエ跡の現状。
◆写真中上:上左は、1933年(昭和8)の「少女画報」12月号表紙。上右は、1922年(大正11)の「令女界」7月号に掲載された『或る夜の夢』。下左は、1924年(大正13)に出版された吉屋信子とのコラボレーション作品『花物語』。下右は、本郷の菊富士ホテルへ夢二を見舞ったときのスケッチ『夢二さん』で、看病する女性は夢二のモデル兼恋人のお葉。
◆写真中下:上は、下落合622番地のアトリエで撮影されたとみられる虹児と龍子夫人。下は、1936年(昭和11)の空中写真(左)と1938年(昭和13)の「火保図」(右)にみる蕗谷虹児邸。
◆写真下:上左は、薩摩=藤田サロンでパリ生活を送った虹児(中央)。ほかに、石黒敬七や向井潤吉の顔が見えている。上右は、パリで1926年(大正15)制作の蕗谷虹児『自画像』。以下、パリ作品群で、1926年(大正15)制作の『巴里のモデル』(中左)、同年制作の『巴里の散歩』(中右)、1927年(昭和2)制作の『ベトエイユの風景』(下左)、同年制作の『柘榴を持つ女』(下右)。